困惑 穏やかな潮騒に気さくな彼の声が重なっている。会話の内容は聞き取れないが、一方的に盛り上がっているのは間違いない。刹那・F・セイエイの無愛想はトレミー随一と言っても過言ではなく、薄い反応以下のものしか望めないのを分かっていて、彼――ロックオン・ストラトスも陽気に喋っているのだろうから。元々態度の軽い男だが、概して今日のロックオンは非常に上機嫌である。 世界は今日も戦争に侵略に保身に勤しんでいるというのに、この南の島は気楽なものである。こうして一見穏やかな景色でさえも、背後に広がる森には人殺し兵器が格納されているのだから飛んだ笑いものだ。頭上からは目に沁みる陽光が照りつけ、肌がじりじりと焦がされた。適温に定まらないことが我慢ならないのは我ながら貧弱だと思うが、気に入らないものは気に入らない。好き好んで地上に拠点を持つ刹那やロックオンが、ティエリア・アーデは全くもって信じられない。 それにしても、久方振りの地上だった。ミッションの詰め込まれたスケジュールの中からガンダムマイスター四人がオフになる今日を目敏く見つけたのはロックオンで、アレルヤ・ハプティズムと共謀して四人でこの無人島での束の間の休暇を楽しむ予定を捻じ込んだのもロックオンだ。そして、無為なことは避けたいと思うのについ口車に乗せられてついて来てしまったのも、全てはロックオンのせいだ。そうだ、全てはあの優男が悪いのである。 ――刹那の髪、伸びてきたし、丁度いいから切ってやろう。 不思議と押し付けの親切に感じないのは、ロックオンだからかもしれない。昨日買い物の最中唐突に刹那の低い頭をぽんぽんと叩き、ロックオンは私物の硬そうな鋏を取り出してきた。無人島の砂浜に着いた途端に刹那の上半身を脱がせて代わりにポンチョをかぶせ、床屋気取りで鼻歌混じりに鋏を振るう今に至る。刹那はと言えば、断ったのは最初の一度だけで、後は好きにさせている。要するに興味がないのだろう。 ――俺はミルクティーがいいから、牛乳を入れておいてくれ。 刹那の散髪が済むまでの間に砂浜にテーブルを出して茶の準備を始めたティエリアとアレルヤに、ロックオンは嬉しそうに言った。却下する理由もないので今まさに彼のコップにミルクを注いでいるわけだが、どの程度注げば良いのか今ひとつ分からない。紅茶などの嗜好品をティエリアは食事に求めないし、基本の調理くらいは心得ているが実地の機会はそれ程ない。 ガラスのコップの中の赤茶色に透ける液体がみるみるうちに白く濁り、ミルクの靄は浮き上がる氷の合間を縫って揺らめきながら溶けていく。その様子が面白いので思わず本来の目的を忘れてミルクを注ぎ続けていると、 「ティエリア、それ入れすぎだよ」 横で軽くつまめる菓子の準備をしていたアレルヤが控えめな声で突っ込んだ。子供じみたことをしていたことに羞恥を覚えて咄嗟に「うるさい」と冷たく応えると、案の定アレルヤは目に見えて落ち込む。しまったと思ってももう遅い。ロックオンとは別の意味で面倒な男である。 「……俺の不注意だった。淹れ直すか?」 なるべく語調を荒げないように続けると、途端にアレルヤの機嫌が戻る。現金な奴め、と心中悪態をつくティエリアをよそに、アレルヤは朗らかに言った。 「いや、勿体無いからいいんじゃないかな」 それにロックオンならこれくらい笑って呑んじゃうよ、と小さく笑み、アレルヤは菓子の準備に戻った。茶の準備はあらかた終えてしまったのでティエリアはもうすることがない。インスタントの紅茶の袋や砂糖などを手際良く片付けていると、折り良くロックオンがこちらに歩いてきた。背後には襟足の短くなった刹那もポンチョのまま続いている。 「お、二人ともご苦労さん。早速食おうぜ」 先に着いたロックオンがアレルヤとティエリアの肩を交互に叩き、歩んできた刹那の頭をわしわしと撫でながら、「良くなっただろ!」と自慢げに見せ付けてきた。アレルヤは隠れていない片目を細めて「すっきりしたね、刹那」とそのまま誉めたが、ティエリアの持った素直な感想としては、さして変わらない、というくらいで何も言いようがない。 「ほらティエリアも何か言えよ」 高さが丁度良いからと好き放題に刹那の頭髪を掻き回すロックオンが、黙り込むティエリアに向かって歯を見せて笑った。何故彼がこんなに笑ってばかりいるのかティエリアには理解できない。テロリズムを憎み、自身もテロリストであることに葛藤を覚えている筈の男が、どうしてこうも快活でいられるのだろうか。そもそも世界の変革を志している最中だというのに、たったの一日とはいえ遊び呆けようという発想そのものが信じ難い。それとも、それが人間というものなのか。 言動や行動が不可解な刹那・F・セイエイよりも、マイスターとしての自覚に欠けるアレルヤ・ハプティズムよりも、もしかすれば、ミッションを完璧にこなしてマイスターをまとめている筈のロックオン・ストラトスが、理解し難いという点でティエリア・アーデにとって一番厄介な存在であるのかもしれない。 「言うほど変化は見受けられない」 自然と声が尖った。だが、この反応も予想の範疇だったらしく、ロックオンは「可愛くねえなあ」と苦笑するだけであった。ティエリアには、やはりこの男がどこか気に障る。 「おいおい、これ淹れたの、ティエリアだろ!」 元の赤茶が見る影もないミルクティーを渡した途端にロックオンが吹き出したものだから、ティエリアは思わず盛大に眉根を寄せた。アレルヤは確かに料理全般を器用にこなすから、失敗があれば他ならぬティエリアが犯人であることは確実と言っても良いほどだが、それにしてもロックオンの即答振りは頂けない。苛立ちを隠そうともせず、ティエリアが音を立てて呑んでいたストレートティーのコップをテーブルに置くと、ロックオンはどこか野卑な笑い方をして手にしていたコップを一気に呷った。 「すげぇ、牛乳の味がする」 半分ほど飲み干して顔を上げたロックオンが言うと、サンドイッチを手にしていたアレルヤが吹き出す。眼鏡越しに一睨みするとアレルヤは肩を竦めたが、同じ睨みがどうしてかロックオンには効かないのだから腹が立つ。 「文句があるなら、呑まなければいい」 「おーおー、怖い顔していると美人が台無しだぜ? ティエリア」 冗談めかしたセリフを吐きながら、ロックオンが指を拳銃の形にしてティエリアの顔面を撃った。何かやり返したいところだが、この男と真正面から睨み合うのは分が悪い気がして、ティエリアはどことなく俯いて虚勢を張る。 「台無しになったところで差し障りはない」 「いいや、あるね。俺の目が楽しくない」 ま、美人を否定しない辺りがお前らしいよ、とにやにや笑う顔が信じられない。まったく何を言い出すのか理解できない男だ。思わずティエリアは憮然とした。 「あなたの目を楽しませた覚えはない!」 「そりゃそうだろうな。俺が勝手に楽しんでいるんだから」 何を言い返しても逆手に取られるのが悔しくて、ティエリアは黙った。要は応じなければ良いのだ。下らない冗談になど付き合ってやる義理はない。無視を決め込み始めたティエリアを一瞥してロックオンはどこか楽しそうに小さな溜息をつき、刹那に向き直る。 「ほら、刹那も食え食え。背ェ伸ばせ」 盛られた分を「美味い」でも「不味い」でもなく黙々と機械的に胃袋に収めている刹那に、ロックオンは目についたものをさらに盛り付けた。面倒見が良いと言うのかお節介と言うのか、彼の個体情報としての経歴は閲覧したことがないので知識にないが、兄弟でもいたのだろうか。刹那ががつがつと食べる様子を、頬杖を突いてにこにこ眺めているのを見るに、少なくとも若年者に対する世話焼きを好んでいるのは分かる。 刹那も刹那でロックオンに好きなように世話を焼かせているのだから、ティエリアにはまったく分からない。好みなどお構いなしに皿に盛るロックオンを敢えて止めず(刹那に好き嫌いがないだけかもしれないが)、話しかけられれば頷いたり短い言葉で返したりとそれなりに応じる。表情が変わらないのは相変わらずだが、刹那自身も心中ではそれなりに楽しんでいるのだろうか。少なくとも、こうした反応があることがロックオンにとって嬉しくない筈がない。 何事にも尖った答えしか返せない自分よりも、刹那の相手をする方がロックオンも楽しいに違いないのだ。 「そう言えば、ティエリア、」 突然ロックオンの矛先が戻ってきた。ティエリアは口に運んでいたパンを持つ手を止め、ロックオンをちらと見る。頬杖を突いたままこちらに向いたロックオンは口元を笑みの形に歪ませて言った。 「お前も髪の毛伸びたな。後で切ってやろうか?」 思わず固まった。鋏の鳴る音と柔らかな鼻歌とかぶせた潮騒が耳の奥で一度ざわりと騒ぎ、鋏の輪に日焼けを知らない長い指が絡まって側頭部を通り抜ける。断たれた髪が風に乗って頭上高くに上昇し、糸が切れたように下降して海面に溶けていく。大柄な手にこめかみやうなじを支えられ、風通しの良くなっていく心地に思わず目を閉じる。 「結構だ」 やっとのことで声に出した。パンを持つ手を下ろし、気管を通り抜ける動揺を飲み下す。ほんの瞬きをする間に副交感神経が活発に働き、ティエリアの五感はここにないものに支配されていた。パンを握って現実を振り返り、必死に我を戻す。 アレルヤが場違いな声音で「このチーズ美味しいね」とロックオンに話しかけた。ロックオンは一瞬前に散髪を持ちかけたことなどすぐに忘れてアレルヤとチーズの話で盛り上がり、刹那は固まったままのティエリアを一瞥して食事に戻る。 人としてどうあることが通常であるのか自分はよく知らない。この反応が、深層の欲求が、果たして正しいものなのかも測りかねる。ヴェーダの膨大なデータベースの端にすら引っ掛からない情報がこの地上には満ち溢れていることを、彼らマイスターと共に武力介入を開始してから嫌と言うほど知らされてきた。今更動揺しても詮無いことは百も承知であるのに、気温に関係のない汗が服の下で肌を執拗に伝うことを止められない。 その一瞬、ロックオンに散髪されることを欲していた自分に、ティエリアはただ困惑を覚えるのみである。 |