束の間に噛み締める 手首を痛いほど握って包み込む人殺しの手の平は大きく、四年ぶりの背中は頼もしげに広かった。ヘルメットから漏れる彼の息に混じる声にすら成長が見出せる気がして、耳は自然と爆音を遠ざける。もう少しゆっくり走ってくれはしないだろうか。運動は得意な方ではない。荒れる息に喉を焼きながら、マリナ・イスマイールは煙たい視界を潜って只管引っ張られる。 閉じ込められた直後、誰かが助けに来るという甘い期待を幽かに抱いた。直ぐに自身で打ち消した甘美な妄想の中で、マリナは脳裏に浮かび上がった彼の影を必死に否定した。 数日前、ガンダムが再び現れた。だから何だ。四年前に確認されたガンダムだけで七機もある。出現したのは新型と聞いた。ガンダムマイスターは何人もいて、刹那・F・セイエイは四年前最後の戦いに赴き、消息を絶った。あの悲しい文章を受け取って以来音沙汰もなく、ソレスタルビーイングのニュースも画面上から消えた。世界は統一されて平和になり、彼らの存在は不必要となったのだ。彼の生存の可能性の低さはマリナも納得していた。 だから、彼は来ない筈で、アザディスタンの者も国連に逆らえる筈がない。助けなどなく、一人で闘うしかない。そう覚悟を決めていた矢先であった。 扉を撃ち破って現れた彼は走れるかと問うと、答えも聞かずにマリナの手を取って今しがた破壊した扉を押しのけて部屋から飛び出した。廊下は煙の色が濃く、破片が飛び散って何もかもがよく見えない。爆音も発砲音も震動も鳴り止まない中淀みなく走る彼に追い縋るのが精一杯である。 彼が刹那・F・セイエイであることに、マリナはあっさりと納得した。何故現れたのか分からないが、彼と共に行けば監禁からは解放されるとも分かった。唐突なことが多すぎて思考が追いつかず、激しい運動に身体のあちこちが悲鳴を上げるのを耐えながら、マリナは走り続ける。饐えた臭いに交じってあちらこちらに飛ぶ怒号に耳を塞ぐ間もなく、やがて視界が唐突に開けた。窓側の廊下に出たのだ。 今までは薄暗さと煙とで凄惨な様が隠れていたのかもしれない。光に照らされたそこは青空が場違いな程酷い有様だった。窓は無事である方が少なく、直接吹き込んでくる風はたっぷりと硝煙を含んでいる。ちらと窓の外を見た途端に足が竦んだ。眼下で一機のモビルスーツが撃破され、もうもうと煙を上げながら凄まじい音を立てて墜落した。悲鳴を上げることすらままならないのは、モビルスーツのパイロットか、或いはマリナか。 「こっちだ!」 激しい声が耳朶を打ち、握られたままの手首を強く引っ張られた。半ば転げながらマリナはついていく。数メートル先に青いモビルスーツがコクピットを晒して割れた窓に張り付いていた。その背後ではもう一機の重量型モビルスーツが光線を撒き散らしている。青いモビルスーツを護っているのだ、と直感する。刹那に導かれるままに狭いコクピットに身を躍らせると、刹那は慣れた動作でコクピットに収まった。扉が閉じ、百八十度以上の視野が映像として広がった。初めて見るガンダムのコクピットに圧倒される。 「つかまっていろ」 言われるままに背もたれにしがみつく。目の前の画面に機動動作が展開され、画面横から別の機体からの暗号通信が出てきた。恐らくもう一人の、刹那の機体を護っていたガンダムマイスターだろう。短いやり取りを交わし、刹那が操縦桿を硬く握り締める。 「ダブルオー、刹那・F・セイエイ、出る!」 あっと思った。激しい震動に驚いたのではない。刹那の力強い腕が操縦桿を繰り、ガンダムは重そうな見た目からは想像もできないような機動力で空高く舞い上がる。重力の位置が掴めないままにマリナは背もたれに全身で縋りつき、しかし目はしっかりと開いて正面を見据える。自分は今刹那の操縦するガンダムに乗っている。現実である。 彼は間違えようもなく刹那・F・セイエイで、今日まで生きていてくれた。 マリナは今更のように、それを思い知った。四年の空白を経て唐突に現れた彼の背は随分と伸び、身体つきもより一層大人らしくなっている。声もまた低くなったかもしれない。仲間と連絡を取りながら刹那は強く高く飛び、雲を切り抜けていく。 生きていてくれた。生きていてくれた。その思いのみがマリナの胸を衝く。 そうだ。最初から期待していたではないか。刹那が助けに来てくれると。自分の心は未だ四年前から変わらず彼を求め続け、彼もまた自分のことを忘れずに求めてくれたのだ。 聞きたいことが山ほどある。思考が落ち着くと冷静さを取り戻してきて、マリナは悲しい事実にも気付き始めた。彼がガンダムに乗る意。彼の求める世界。闘いが、また、始まる。 操縦中に話しかけてはいけないかもしれない。だから、このコクピットから出るそのときまで、溢れる質問はしまっておく。 代わりに、今のうちに再会の喜びを噛み締めておこう。マリナはそこで漸く、密かに目を閉じた。 |