鼻先を漂うちっぽけな粒を見咎めた。


なまえを呼んで


重力の行き場をなくした小さな水滴の群れは不安げに縮こまり、緩やかな速度で目の前を流れていく。ミレイナ・ヴァスティがジュースでも持ち込んで零したのだろうか。あの小娘の年齢に見合わぬ能力の高さは買うが、情緒に関してはそれこそ年齢に見合わぬ幼稚さを備えていると常々思う。十四と言えば、まだこのプトレマイオスに四人のマイスターが揃っていたときのフェルト・グレイスや刹那・F・セイエイと同年代である筈だが、彼女は到底同じ生き物には見えなかった。
プトレマイオスは共同生活の場であり作業場であるからして、だらしのないところは見過ごせない。僅かな水滴の粒の軌跡を辿り、ティエリア・アーデは展望室が犯人の居場所と断定する。説教の文句を心中で練りながら展望室に入り、後悔した。
ガラスに凭れ掛かるようにして無重力に身を沈めていたのは、視界の端で跳ね回る十四の小娘ではなく、大人の面影の差し始めた目尻から水滴を滲ませるフェルト・グレイスであった。
「フェルト・グレイス……」
フェルトは胸にハロを抱え、声を上げることなく静かに涙をこぼしていた。憂いを帯びた表情は彼女をより大人らしく仕立て上げ、堪え切れていない吐息の震えにティエリアは身を固くする。フェルトは唐突な来訪者にさして驚いている様子はなく、ただ涙を見られまいと乱暴に目元を擦った。今更のように見てはいけないものを見てしまったということに気付いて、ティエリアは目を逸らして言う。
「その、……すまない、邪魔をした」
こういう場合にどうすれば良いのか、ティエリアには今一つ分からない。人の感情に対してのベストの反応とは情報と知識だけでは補え得ない。いつもは喧しいハロが何一つ喋らないのも不気味だ。兎に角この場を去ることが第一を判断し、ティエリアは踵を返して床を蹴る。無重力は彼の身体を柔らかく受け入れる。
「待って、ティエリア」
幼さを残した細い声が追いすがり、入り口の縁に手をかけてティエリアは振り返った。銀河の暗闇を背後に回したフェルトが薄く笑んでいた。赤い瞼が一つ瞬き、小首を傾げる。儚げな表情に目を離せない。少女と言うには大人びていて、女と言うには幼すぎる。狭間に差し掛かって、より美人になったと素直に思えるフェルトの唇が柔らかく誘う。
「少し、お話しよう、ティエリア」


「今日はね、両親の命日なの」
ハロを優しく抱えたフェルトは既に涙を流していなかった。どの位置にいれば良いかと迷った末、ティエリアはフェルトから幾分か距離を置いた隣で同じようにガラスに凭れている。用途のない空間には立ち寄らないせいか、馴染んでいる筈のトレミー内部だというのにこの展望室はどこか新鮮だった。或いはフェルトと二人だけだからかもしれない。
「両親はガンダムマイスターだった」
「……第二世代か」
「そう」
こくりと頷き、フェルトは続ける。
「でもね、わたし、どうして両親が死んだのかは知らないの」
呟くように明かすフェルトの横顔は、悲しむでもなく怒るでもなく、淡々とした笑みを浮かべている。この場合慰めの言葉は要るのか。しかし、フェルトが自発的に喋っているとはいえ、迂闊に傷を穿り返すような真似もできない。そもそも何のつもりでフェルトが身の上話などをティエリアにわざわざ聞かせているかすら理解できないのに、手出しのしようがない。こうして無愛想に無反応をかぶせるから、冷徹だと言われるのだろう。
あの人ならば、上手く慰めてやれるに違いないのに。
「もう……二年経つ。この話をロックオンにしてから」
思わず顔を上げてフェルトを見つめる。まるで心を読んだかのようにフェルトはその名を口にし、ハロを抱き締める腕に力をこめた。ハロは大人しくフェルトの胸に顔を埋めている。機動停止でもしているのかと思うほど一言も喋らない。この人工知能も反応の仕方が分からないのか、それとも空気を読んだ上でこうして黙っているのか。
「ロックオンに話したのか」
問わずにはいられない自分をティエリアは抑えられなかった。常に胸の内に喚起する彼への様々は一人で抱えるからこそ自制できるものであって、他人を介した彼の存在を認知した今、抑えどころを失っている。
「うん」
フェルトはティエリアの動揺など読んでいるように落ち着いた声音で応えた。
「優しく慰めてくれて、それで、本名を教えてくれて、これでおあいこって」
ここで個人情報の守秘義務を突きつけることが野暮であることくらい、ティエリアとて分かる。フェルトの言葉から拾うべき重要項目はそこではない。見つめる横顔にじわりと懐かしみが浮かび、漸くフェルトはティエリアに向き直った。
「あの人はいつもそう。優しいの。誰にでも、優しい。ティエリアにも優しかったし、刹那にも、アレルヤにも、他の皆にも」
フェルトの口を介して零れ落ちるロックオンの欠片を、ティエリアの鼓膜は一つ一つ丁寧に拾い上げる。全てを合わせて彼が戻ってくるなら幾らでもそうするが、詮無いことであるのは誰よりも自分が承知である。
「きっと、ロックオンなら、今のわたしを簡単に慰めちゃう」
フェルトの瞳の表面が震えた。フェルトの言葉が暗に慰めの言葉一つ出てこない自分の不甲斐無さを言っているようで、ティエリアは少し居心地が悪くなる。故人に対する仮定というのも何だか気分が悪い。勿論フェルトにはそのつもりはないのだろう。ハロを可愛がっているせいだろうか、フェルトを見ると彼ばかりが思い起こされる。
「ティエリアは、未来のこととか、考える?」
脈絡のない突然の問いかけに、ティエリアはどうしてか動揺した。それまでの会話に繋がりを見出すのはあまりに酷で、しかしフェルト相手に取り乱すわけにもいかない。細やかな睫毛に縁取られたフェルトの弱々しい瞳に映される無表情の自分を睨みつけ、ティエリアは一息に答えた。
「我々ソレスタルビーイングは未来のためにある。それは分かっているだろう、フェルト・グレイス」
「そうじゃないの」
やっとのことで口にした一言を、フェルトの薄い声は残酷にも即座に否定する。
「もっと小さなこと。例えば、わたしがもっと大人になって、歳を取って、両親の年齢を超えて、おばあちゃんになる頃の話」
フェルトの問う意味が分からず、ティエリアは口を噤んだ。口元の笑みを幾分か消して、フェルトが続ける。
「今ここにいても、おばあちゃんになるまでずっといるわけじゃないよね。そういう、今とは全然違う、先の自分」
或いは、と、呟く唇が不吉に見えた。
「わたしはすぐに死んでしまって、そういう未来はないのかもしれない」
「滅多なことを言うな」
思わず口を挟んだ。フェルトの言いたいことが言語化の不可領域で理解度を増していくのが堪らなく心地悪かった。その先にあの誰もが頼る寂しげな背中が見えて、思わず唇を歪める。理解し難い人間の感情をティエリアは確かに持っている。それでなくて、どうして生死の領域に話題が飛ぶことに胸が騒ごうか。
「でも、わたしの両親にはなかった。クリスティナ・シエラにも、リヒテンダール・ツエーリにも、それに、」
「フェルト・グレイス!」
思わず怒鳴った。フェルトは一瞬肩をびくりと竦ませたが、それ以上は怯まなかった。強く煌めく瞳を張って、この少女は何と強くなったのだろう。それに比べて、二年の月日は果たしてどれ程自分を変えたのだろうか。
彼を思い出しても取り乱さなくなったことくらいか。
「ティエリアに、聞きたい」
打って変わって強い色を宿した瞳が、ティエリアの双眸をかちりと捉えた。
「ティエリアは、ずっと未来、おじいちゃんになっている頃のこと、想像できる? わたしも含めて、皆のずっと先の将来、見える?」
初対面時に、ものをはっきりと言えない儚げな声だと少し苛立った。そのフェルトが、意思を滲ませた強い声音でティエリアを襲う。伏せてばかりいた瞳はティエリアの目の奥に潜む思考を見出そうとしている。涙の名残が表面で揺らぎ、赤い瞼は動揺の震え一つ起こさない。圧倒的な存在感を醸したフェルトに睨まれたティエリアは、なす術を持たない。
答え方が、見つからない。
「……わからない」
搾り出すように言うと、フェルトの瞳の色が薄らいだ。溜息をつき、乗り出していた身を引く。一呼吸置いて囁くように、変なことを聞いてごめん、と言った。
「わたしもまだ、分からないの」
フェルトの目線がティエリアから外され、緊張が解れる。力を抜いて再びガラスに寄りかかり、次の言葉を待った。先ほどからのフェルトのイレギュラーにはだんだんと慣れてきた。こうなれば、突き詰めるまで聞いて全てを受け止めてみようとさえ思った。
「……今でも、ちょっと後悔していることがある」
瞼を薄く伏せて、フェルトが落とした声で続けた。
「クリスティナ・シエラのことを、わたし、クリスと呼んだことがあまりないの。いつも、フルネームか、クリスティナか、どちらかで。きっと、クリスティナはわたしにクリスと呼んで欲しかったのかもしれないと、今思っている」
「呼び方に意味があるのか」
フルネームかそうでないかの違いなど呼びやすさ以外にティエリアは見出しておらず、そもそもコードネームであるからして意味を持たせる必要性を感じない。否、フェルトの口ぶりからして、持たざるを得ないのかもしれない。
「あるよ、ティエリア」
不意にフェルトが声を一段と潜めた。静けさの中の小さな声はかそけく、より際立って耳朶を震わせる。
「距離が、近くなるの」
「略称は効率性もあるだろう」
「それだけじゃない。想像してみて、ティエリア」
フェルトの腕がハロを解放した。爪先が床を突いて、細い身体がティエリアに緩やかな速度で近付く。癖のある髪が流れ、迫る顔にティエリアは思わず身を引いた。
「ロックオンに、ティエリア、と呼ばれるところと、」
喉が鳴った。程良い気温に調節されている筈なのに、汗が滲む。
「ティエリア・アーデ、と呼ばれるところ」
声が出ない。動けない。記憶の画像が脳裏に流れるが、音声は再生不可だ。否、わざとそうさせているのか。間近に迫ったフェルトはティエリアの腕をそっと掴み、今度こそ逃さないように顔を近づける。前髪と前髪が絡み合う距離で、宇宙を閉じ込めた瞳が言う。
「名前を呼ばれる方が、嬉しいでしょ」
「……っ」
この近距離で言葉を紡げるフェルトが信じられない。ともすれば唇が当たってしまう気がして、ティエリアは歯を噛み締めた。フェルトの呼吸が近く、迂闊に手を振り払うこともままならずに息を潜める。
「だからね、ティエリア」
ティエリアは唐突に、目の前の少女の睫毛が長いことに気付いた。
睫毛が長くて多いから、境目が分からなくて儚い瞳という印象を受けてしまうのだろう。本当はこれ程に自分を圧倒する強さを秘めているのに。


「なまえを呼んで」


近過ぎて何も見えない筈なのに、ティエリアはフェルトの口元が笑んでいるのを何となく感じ取った。その笑んだ唇が歌うように続ける。
「フェルト・グレイスじゃなくて、フェルト、って呼んで」
フェルト。フェルト。舌の上で転がすように繰り返すが、声帯が働かないおかげで声にならない。唇が開けられない。腕を掴むフェルトの指に力が増し、ほんの小さな体重をかけられる。無重力下での一方向への運動が意味することは明白で、ティエリアはフェルトを抱き留める形でガラスに寄りかかった。先ほど恐れたことが幻に思えるほど、フェルトの身体は細く弱々しかった。
「わたしのなまえ。……フェルト」
内側から唇を舐め、ティエリアは口を開いた。唾を飲み下し、精一杯見つめ合う。
「フェルト……」
声が掠れた。我ながらみっともない声である。フェルトは満足げに微笑み、そっとティエリアから離れた。離れられて初めて、ティエリアは寒さを感じた。宇宙の寒さではない。フェルトの身体が温かかったのだ。フェルトの細い両腕は折り良く漂ってきたハロを捕まえ、元のように抱く。
「クリスティナに未来があれば、わたしが彼女をクリスと呼ぶ未来があったかもしれない」
寂しげに動く唇を視線で辿り、遠くなった瞳を見つめる。フェルトはもう目を合わせてくれない。
「もう、訪れない未来を悔やみたくないの」
「ああ」
その感覚は痛ましいほどにティエリアの胸に突き刺さる。どこか見覚えのある髪型をしている目の前の少女は、四年前には既にこの痛みを抱えていたのだ。自分が無知で無謀で機械に操られる人形であったそのときから。
「ティエリア、わたし達はヴェーダの意思ではなく、自身の覚悟でここにいる仲間だよね」
「そうだ」
今度は力強く答えた。フェルトの爪先が柔らかく床を蹴って、ハロを抱えたまま入り口の方に身体を流す。特徴的な色の髪が肩口から溢れた。
「皆のこと、なまえで呼んで。距離を近くしよう、ティエリア」
入り口に肘を引っ掛けたフェルトが、最後にもう一度ティエリアと目線を真っ直ぐ合わせた。瞼の赤みが大分引いて、画面に向かういつもの顔に戻っていることにティエリアはどことなく安堵した。
「話を聞いてくれてありがとう」
言い残して、フェルトは無重力を泳いで消えた。機械的な音を立てて閉まるドアを見つめ、ティエリアは襲ってきた疲労と脱力に溜息をつく。今しがたのフェルトはミレイナ・ヴァスティとは別の意味で違う生き物のように思えた。少女という生き物は皆不思議な部分を常に体内に宿していて、契機を掴むとそれが飛び出す仕組みにでもなっているのだろうか。
フェルトの理屈は根本的な部分でティエリアには理解しかねる。呼び名を略すのは呼び易さを第一としているからで、呼ぼうと思えば誰を何とでも呼べるのだ。親しくてもフルネームで呼ぶことはできるし、疎遠でも名のみで呼ぶことはある。
しかし、彼にフルネームを呼ばれるか名だけを呼ばれるか、の問いに動揺したことは否めない。眼前に迫った少女の名を呼んだときに心が震えたのも確かだ。
(これらを理解することは、或いはフェルトの言う未来に繋がるのだろうか)
仲間を大事にし、絆を深める。過ちを赦して、互いを高め合う。何よりも大切なそのことを教えてくれたその人はここにいない。彼から教わりたい疑問はまだ胸中に渦巻き、泥のように重く湿ってティエリアの心を縛る。解放されるには解答を得なければならない。
(それなら、)


自身で答え――未来を見つけるまでだ、と、ティエリアは一人ごちた。







ティエフェルの絆の話を一回書いてみたい!と思ってました。二人ともニールが大好き。
二話でフェルトのことを普通にフェルトと呼んでいたティエリアを見て凄く動揺した自分ばくしょう。
因みにティエリアはおじいちゃんになっても某波留さんみたいにさらさらストレートヘアで滅茶苦茶麗しいと思う!!
08/10/20