彼の好まざるイレギュラー 例えば、キスをするときに目を閉じる。どんな映画のどんなに小さなラブシーンでも、街角や裏路地で見かける誰かの人生の一瞬でも、環境国籍人種を問わず皆が一様にそうしているから、それは一種のひととしての礼儀なのだと思う。 言葉が減れば減るほど不思議と相手の要求は読むに易くなり、全てのタイミングを刻む相手の鼓動が手に取るように分かる。なすべきは唯一つ。先に目を閉じて、相手にサインを送る。たったの、それだけだ。 そういうわけで、フェルト・グレイスは、ティエリア・アーデのキスをしているときの顔というものを見たことがなかった。 キスだけではない。ティエリアは大抵のことについて主導権を握っていたし、フェルトもその方が楽だから導かれるままに従った。無体を強いられることもなく、少しでも嫌がる素振りをすればティエリアはたちまち退いてフェルトを尊重する。その扱い方は、大切にされているとも言えば、信用されていないとも言う。 (ちょっと厭なことをされたくらいで、嫌うわけがないのに) 否、厭われることを恐れているという解釈は少々傲慢かもしれない。距離があるから傷つけられずにいるだけだ。ティエリアは足し算と引き算でものを考えるきらいがある。 (けど、あのひとに対してだけは、そうして積み重なるアルゴリズムを全て崩してしまう) 或いは、それは自分も同じか。フェルトは嘆息してティエリアの髪の匂いを嗅いだ。こうして抱き締められるとき、フェルトは羨ましくなるくらいきれいな髪に鼻先を埋める。別段、凄く良い匂いがするわけでもないが、手前勝手な安心感を得られるのである。 ティエリアの身体は大きかった。肩幅も広く均整の取れた体型をしていて、抱き締めるとしなやかな筋肉の弾力が感じられた。背もあり、力もあり、人並みに男らしくある。 (女の子みたいな顔の癖に) 言えば機嫌を悪くするのは目に見えているので、フェルトはそれを敢えて指摘したことはない。眼鏡は伊達ならば取った方が良いと思う。眼鏡のない顔の方がフェルトは好きだし、眼鏡はキスをするときに少し邪魔なのだ。 (見たい) こうして抱き寄せられるのも、その後に続くことも、全てティエリアが丁寧に施した足し算と引き算に沿って行われる。与り知らぬところで起きている筆算の経過を問うには、まだ間が埋められていない。一度に歩み寄る勇気もない。分かっている。けれど。 (見たい、ティエリアの顔) いつも、何となく見詰め合って、ティエリアの指がいつの間にか頬から首にかけてのどこかに這わされて、そこで初めて目を閉じている。瞼が全て下りてしまう直前の細い視界が僅かに捉えるのは、どことなく申し訳無さそうな顔のティエリアだ。ティエリアは大抵、申し訳無さそうな顔をして、フェルトに触れるのである。 抱き締められていた身体が緩く解放され、フェルトは埋めていた鼻先を髪から起こした。中途半端に抱き合ったままティエリアの手がゆるりと伸びて、フェルトの顎の辺りをそっと掴む。顔が近付き、ティエリアの白い顔に影が差した。今日は珍しく眼鏡を取っているのがどこか嬉しい。心許ない空気を隔てただけの近さで見詰め合っているのに、互いの視神経が脳で再生するのは、ここにはいない姿である。 フェルトは目を閉じなかった。徐々に近づける顔を少しばかり止めて、ティエリアはフェルトが当たり前に行う筈の所作を待った。なかなか始まらないことに長い睫毛が動揺して揺れていた。それでも、フェルトは目を閉じなかった。 「……どうした」 掠れた声でティエリアが問う。喋るたびに唇が吐息に撫でられるのがこそばゆい。 「したくないのか」 顎を捉えた指先が心持ち離れ、緊張で固まった。この場面においてフェルトがティエリアの意に沿わないのは初めてである。概して、ティエリアはイレギュラーに弱い。異端分子の連なりこそが日常であることは、ヴェーダのリンクをなくした今一番分かっている筈なのに、生来の癖がティエリアの不安を掻き立てる。 「ちがうの」 フェルトは薄く笑って囁いた。ティエリアは表情には出さないものの、困惑しているようであった。拒絶でもないのに行為を遮られる意図を、ティエリアは未だ経験していない。一瞬解答を全て取り上げて見捨てるという選択肢が浮かぶが、それはあまりにいたずらが過ぎるとフェルトは判断し、素直に告白することにした。 「ティエリアがキスしているときの顔が、見たくて」 形の良い眉が寄り、滅多に変化しない表情が少し歪んだ。それが堪らなく愛しい。 「……は?」 搾り出すようにティエリアは答えた。心底分かっていない顔だ。あまり見たことのない表情が嬉しくて思わず口角が上がりそうになるが、フェルトは必死に堪えた。自分の発言の詳しい注釈を懇切丁寧に説明するのは興醒めだから、今しばらく黙って様子を窺うことにする。 ティエリアは相変わらず戸惑っているようであったが、やがて、低い声で「……嫌ではないんだな」と問うた。その問題にぶち当たっているようでは、フェルトの意は当分理解できまい。頷きつつも、フェルトは少し残念に思った。ここは折れて目を閉じてやるべきなのだろうか。 「嫌ではないなら、してもいいか」 「もちろん」 答えると同時にティエリアの瞼が下がり、唇を塞がれた。間近で見るティエリアの肌は肌理が細かく、少女じみている。睫毛の長さに見惚れてしまうのはいつものことだが、フェルトはつくづくこの男の持ち合わせる美しさに心中嘆息せずにはいられなかった。自分を覆う身体つきも、声も、することも、どこまでも男のそれであるのに、ただそこだけが少女のそれを模倣しているのである。 目を閉じているティエリアの頬が心なしか紅潮していた。近過ぎて全容がよく分からないが、思った以上に幼い顔をしていると思う。前髪を瞬きで払い除け、フェルトはいつもの手順でティエリアに応えていく。顎を支えていない方の手に力がこもったので、負けずに抱き締め返した。応えがあることにティエリアは酷く安心するらしかった。 (そうか) 必要ないのだ、と、そのときフェルトは悟る。そうして瞼を下ろす。瞠目のもたらす闇は視覚以外の五感を際立たせ、ティエリアの気配を全身の産毛が俄かに察した。背筋を舞い昇って後頭部を騒がせるその快感に堪らず声を漏らすと、ティエリアの動きが心持ち大胆になった。今日のキスはいつもより長かった。 色気も何もあったものではない質素な簡易ベッドに緩やかな重力に身を任せて二人して倒れこみ、ティエリアがフェルトの顔の脇に両手を突いて身を起こす。フェルトが笑うと、ティエリアは少しむくれるように目線を逸らした。所作にところどころ現れる幼さが、ティエリアの本質であるとフェルトはずっと昔から見抜いている。 「そんなに面白いのか」 声が低い。少し不機嫌なのだ。軽度であると理解していても、多少の不安が湧く。 「人が……キスしているときの顔が」 口ごもるように言うティエリアが愛しい。不満に思われる恐れよりも強く、フェルトの腕はティエリアの首の後ろに回った。指先で髪の毛を巻き取り、引き寄せられる瞳が幽かに疼く。好きだ、愛しい、愛している。薄ら寒さすら覚える字面の感情を、フェルトは確かにこの美しい青年に抱いていると言えた。たとえ、瞼を閉じずとも浮かぶ姿が彼でないとしても、フェルトはティエリアが、好きで、愛しくて、愛しているのである。 「おもしろくないよ」 ティエリアの薄い唇を軽く唇で突付いてみた。見つめるティエリアの黒目が縮んだ。 「かわいかったの」 この沈黙は目まぐるしい解析処理に使われているのだろう。フェルトは未だかつて自身から唇を求めたことはなかった。イレギュラーに動揺を隠すことすらままならないティエリアは、中途半端な体勢でフェルトに覆いかぶさったまま縮んだ黒目を戻そうとしない。 「……君の考えが分からない」 好きなだけ時間をあげたのに、結論に届く前に諦めてしまったようだ。ティエリアには、きっと、一生分からない。それを教えてくれる人がいないのだから。 「わからなくていいの」 だから、フェルトはもう一度ティエリアの顔を引き寄せた。美しい顔。美しい髪。美味しいところだけを吸い取ったティエリアは、作り物にばかり見えてしまって困る。 瞼を閉じる直前に、哀しげな赤い瞳を潤ませているのを見て、兎のようだと感じた。 「わからない」 触れ合う間近の唇が、言葉を空気に孕ませる。 |