説得 モニターに映し出された禍々しい赤に、理性が吹き飛んだ。辛うじて叫ばずにいられたのは隣の存在が大きかったからだろう。だが、彼を伺い見る余裕がそのときのマリナ・イスマイールにはなかった。 この小さな国の全域をマリナは一つ一つ胸に刻んでいた。実際に歩くことはあまりなかったが、この国を愛して今まで歩んできた。隣の彼を留め置きたいとさえ思う、帰るべき安寧の地である筈のそこが、今は無残にも業火に溢れ阿鼻叫喚の相を繰り広げている。見知った建物が悉く瓦解して無様な骨格を晒し、端々で逃げ惑う人々が炎や瓦礫に追われて息絶えてゆく。信じられない。自分がいない間に、どうしようもなく国が壊されていた。信じたくない。目が逸らせない。 「まさか……」 低い声が隣でぼそりと呟いた。まさか、何なのだ。彼は何を知っているのか。アザディスタンがこうなると分かっていたのか。否、そんな筈がない。分かっていながら放っておくのはCBの理念から外れるし、第一それならばマリナをここまで連れて来ない。赤黒さに見慣れてきた脳は、やっと少し冷静な思考を始める。 「降ろして」 口を衝いて言葉が転がり出た。息を呑む音に気付かない振りをして続ける。 「皆が苦しんでいる……国の皆が。私は行かなければならないわ」 「駄目だ」 刹那が即座に切り捨てる。そこでやっとマリナは刹那を振り返った。無表情の彼が、今は酷く汗をかいている。彼とて動揺しているのだ。マリナは声を張り上げた。 「国がこんなことで……こんなことで、私に、見捨てろと言うの! 私を送り届けてくれると貴方は約束してくれたでしょう。降ろして!」 激情のままに身を乗り出すと、刹那が操縦桿を握り、旋回を始めた。 「駄目だ。トレミーへ帰還する。あんたも来るんだ」 赤黒い景色が遠ざかろうとする気配にマリナは焦って、咄嗟に刹那の腕に縋りついた。 「やめて! 私をここで降ろして! してくれないなら飛び降りるわ!」 世界の変革を謳う人殺しの制服の胸倉に縋りつき、力の限り引っ張る。城でぬくぬくと育った自分の腕力など彼から見れば甘っちょろいものでしかないに違いないことが、今はどうしようもなく悔しかった。所詮自分はあれだけ守ると豪語した国を高みから傍観するに過ぎない存在であることに、どうしようもなく焦った。 この国と共に果てても良いとさえ思う。 滲む涙も嗄れる声も、全てが全て、疎ましい。どう繰れば操縦桿が国に向くのかを知らない自分が、不甲斐無くて仕方ない。 国に帰りたい。死ぬ覚悟などとうの昔にできている。こんなに近いのに。 「お願いよ刹那! 私を、この国へ、帰して!」 「馬鹿を言うな」 刹那が一喝した。大音声でもなければ手酷く怒鳴ったわけでもない。僅かに荒げた語調が、しかし見たこともない刹那の激情を克明に表していた。いつになく引き結ばれた固い唇に、釣り上がって潤む瞳に、マリナは驚いて固まる。その隙に刹那が強く操縦桿を回して機体を激しく後退させ、雲間に隠した。あっという間に白い靄で覆われたモニターを呆然と見詰め、マリナは縋りつく手の力が抜けていくのを感じた。 「あそこで降りても、あんたは何もできないし、死ぬだけだ」 刹那がぼそりと言う。静かに逆戻りを始めた機体の動きをシートの上で感じながら、マリナは答える。 「……分かっているわ。でも、私はあの国を、」 「あんたを死なせるわけにはいかない」 刹那が鋭く言った。息が止まる。彼はどうしてこうも人の呼吸を奪う術を心得ているのだろうか。見つめ合うと瞳に吸い込まれてしまいそうで、マリナは俯いた。 「絶対に、死なせない」 刹那の言葉が、胸に強く染み込んでいく。王女という立場柄、自分に死なれては困るという状況は幾らでもあった。だから皆が皆マリナを守ってくれた。だが、一体全体何人が、王女の名をなしにマリナ個人を死なせたくないと言ってくれただろうか。刹那の真摯な声音には、利害を飛び越えた剥き出しの感情が抑えどころもなく疼いている。 マリナの瞳から、ぽろりと大粒の涙が一つ落ちた。決して嬉しいのではないが、哀しいと思う心とも少し距離を置いた場所にあるそれを、マリナは大切に撫でていたかった。 刹那に縋る手を離し、マリナはそっと顔を覆う。堰を切ったように溢れてくる嗚咽や涙を見られないようにする方法が他に思いつかなかった。 「あんたを、」 刹那の声が耳朶を打つ。 「あんたを、アザディスタンに、いつか帰す」 言葉が少ないからだろうか。彼の言葉はいつも真実味を帯びている。 「約束する」 俯く肩に無骨な手の平が乗ったのが分かった。我を忘れてその腕に縋りたい気持ちを抑え、マリナはじっと身体を縮こまらせた。手の平は迷うようにマリナの肩に乗せられたまま、暫く固まっていた。輸送艦の機動音がやけに響いていた。 故国が、遠ざかっていく。 |