残りもの 彼は何一つ残す気はなかったの、とフェルト・グレイスは溜息に似た音で呟く。だって、回収されたデュナメスのコクピットは、シートが多少擦り切れていたり、コントローラに指紋がついていたり、そんな程度にしか痕がなくて、私物らしい私物は一つもなかったんだもの。 細い身体をしなやかに手摺りに寄りかからせるフェルトは、この頃髪を一つに束ねるようになった。髪の先を僅かな重力の海が蔓延する空間に踊らせ、彼のものに似た濃い色のグローブに包まれた指先がティエリアに向かって飲み物を差し出す。無機質な試験管の中には半透明の薄緑の液体が限界まで満たされ、硬質なストローの先から丸い小さな粒を吐き出していた。受け取るついでに今日初めて彼女の姿を網膜の中央に映してみると、フェルトも同じ飲み物を持っている。半ばまで減った液体は、球体になりきれずに試験管の中を窮屈そうに揺れていた。 「差し入れ」 青白い頬を逸らし、液体で濡れた唇が閉じた。フルーツの酸味と甘味を絶妙に混ぜた匂いが漂い、心なしか視界が霞む。彼女に倣ってストローを舌の先に押し付けて軽く啜ると、顔の肌や髪の表をちくちくと撫でるだけだったその匂いが身体の内側に直に沁み込んで、細胞という細胞が崩れる錯覚に陥った。部屋の薄暗さが輪郭を曖昧にさせ、果たして目の前に立つフェルトはどこからどこまでがフェルトなのか、ティエリアには判断がつかない。唯一確実な線を確保しているのは、フェルトの背後の硝子の向こうに蒼褪めた光を浴びて鎮座する人殺しの道具だけだった。 「ねえ、これ、何?」 フルーツの殺人的な芳香を漂わせて、フェルトが聞く。彼女の囁く声がティエリアは苦手だ。小さく掠れてすぐに磨り潰せそうなか細さは、しかし鼓膜が捉えるたびに胸にざらざらとした立体的な違和を残す。実体のない不安なのだろうか。問いの行方を探るために彼女の顔を再び見遣ると、硝子玉を思わせる虹彩を持つ瞳は、背後の無機物に侮蔑の眼差しを送っていた。 「ケルディム・ガンダム。まだ開発途中だが」 「何故、スナイパーライフルがついているの?」 「遠距離狙撃に特化させたモビルスーツだからだ」 「塗装がグリーンなのね。どうして?」 「……デュナメスの後継機だからだ」 質問を重ねられるうちにティエリアは居た堪れなくなった。フェルトの目線は依然動かず、会話をしているのにまるで独り言のようだ。せめてあの瞳がこちらに向けられたら良いのに、生き物のような双眸が嬲るのは碌にものも言えぬ兵器である。 「何故?」 ああ、その声。ティエリアは密かに自身の手の平に爪を立てて、歯痒さを堪えた。フェルトの目線が徐々に動き、しかし一度もティエリアを捉えることなく伏せられる。一般的な美醜の感覚など分からないが、ティエリアがフェルトを最も美しいと思うのは、大抵目を閉じてどこか恍惚とした表情になったそのときである。要するに、自分はフェルトの瞳を恐れているのだろう。人為的に作られた自分よりも硝子玉を模倣することに専念された、ブルーの瞳。無機物の振りをして、誰よりもものを語る虹彩のうねり。彼女は映すものを無意識下で石にした。 「誰が、乗るの?」 その疑問に答えられる筈がないことを、フェルトとて承知している。それでいて問うこの行為は決して意地悪でも皮肉でもない。ただ、確かめたいだけなのだ。硝子の向こうにいるから、何も残さなかったから、手で触れられないから、実感が沸かない。空虚に感触を与える作業の一貫として、ティエリアはフェルトの独り言に返答しているに過ぎない。 誰か、誰かが乗る。少し口ごもりながら重力の薄い空気に載せた言葉は我ながら随分と無責任だ。フェルトの言及の矛先は自身ではない。責任転嫁の心地良さと後味の悪さを一緒くたに噛み締め、ティエリアは押し流すようにそっとまたフルーツジュースに口をつけた。鼻腔を甘酸っぱさが支配して、涙腺を撫でられた気がする。 「ロックオンは星になったの。刹那の話、聞いた? 爆発に巻き込まれたって。私達が目にする星なんて、所詮宇宙に漂う小さな欠片だもの。人と星は同じ成分でできている。ロックオンのどこかは星になっている」 酸い匂いの正体に、今更気付く。フェルトが当然のように口にするから分かる筈がなかった。道理で感覚器が麻痺する筈だった。匂いこそ戦術予報士が年中漂わせていたから慣れていたが、酒精を直に身体が吸収するのは初めてかもしれない。記憶すらおぼろげだ。 「刹那はどこかに行っちゃった。アレルヤは行方不明」 ガンダムマイスターは、もう、あなたしかいないのに。空気に載せることを拒むような囁きが、ゆったりと意識のまどろみを促した。 |