接近 少し疲れた優しい目元や、艶を失いつつありながらもたおやかに流れる髪を見て、やはりどうしてか言葉にできない迷いが現れる。神から突き放されてから囚われないことばかりを考えているというのに、目の前の孤独な王女はいようがいなかろうが存在そのものだけで切り捨てた筈の思考を刹那に与えた。それは果たして良い傾向なのか。何をどう迷ったところで変遷など有り得ないにも拘わらず、その渦巻く迷いに無益さややるせなさを感じないのは、マリナが相手だからだろうとこの頃刹那は確信を持っている。 「……四年前も、この船に乗っていたの?」 整えられた重力に沿って歩きながら、背後のマリナが問う。 「違う。四年前のトレミーは国連軍の攻撃で大破した。今のこの機体は二代目だ」 「……そうなの」 萎んだ声が頷いた。まだ乗り込んでから日の浅いトレミーUの白い壁を睨みつけ、刹那はその声を外に追いやる。無愛想は百も承知、相手の気分を害すこともままあるが、それをこれ程もどかしく思うことはなかった。背後のマリナが気を取り直したようにまた問う。 「刹那の部屋はあるの?」 「ああ」 「四年前の、ええと、トレミーにもあった?」 「ああ」 決して生返事のつもりはない。マリナの疑問や言葉には、いつでも真剣に答えてやっているつもりなのだ。心臓に影と光を伴って現れるマリナの気配は刹那にそうせねばならない錯覚を与え続けている。否、錯覚などではないのかもしれない。 何故マリナは仕様のないことばかり聞くのだろう。ただの好奇心か、知りたいと欲されているのか。疑問詞を含まない問いへのイエスとノー以外の答え方を、刹那はよく知らない。 再び背後の気配が萎んだ。そのつもりでなくとも、自分の無愛想はマリナから僅かな笑顔さえ奪っている。人の笑わせ方が上手かった男もいなければ、管制室を和ませていた活発な二人もいない。マリナに笑顔を与えること、ひいては自身の満足のためにできることの解答を先ほどから何度も記憶の海で模索しては失敗に終わっている。 不意に、踏み出した先の床が見つからず、つま先が空を掻いた。 トレミー自体が揺れたのだ。 海中の移動をするようになってから、障害物を避けるためにトレミーはしばしば揺れた。コップに張った水の表面が薄く波立つ程度の揺ればかりであるが、今度の揺れは少し大きく感じる。呼び出しはないので敵襲である可能性は低い。 「あっ、」 上擦った控えめな叫びに、何を考えるでもなく軸足が踵を返した。振り返った反動のままに踏み出して、脊髄反射に従ってよろけたその身体を受け止める。 鼻先に一瞬間だけ広がった髪の黒さに、人知れずぞっとした。胸元に押し付けられた額と抱き留めた腕が触れる肩が、唐突に象徴的な輪郭を三次元に展開させる。指先の神経がひしひしと証明するごとに、刹那は焦りが蓄積するのを覚えていく。 「じ、地震かしら、」 マリナが素っ頓狂なことを言った。白く乾いた手を刹那の肩に縋らせて、緩やかに身を寄せている。浅く息をつくのがマリナを小さな生き物のように思わせた。この世に神は存在せず、マリナも一人の人間であるに過ぎない。 「……ここは海中だ。軌道修正か何かだろう」 答えて気を紛らわせるとマリナも落ち着いてきたようで、刹那にかけていた重心を元に戻しながら制服の肩をそっと撫で、身を起こす。和らいだ顔が肩を竦めた。 「ああ、そうだった、馬鹿なことを言ってしまった」 「いい」 早く手を離してくれはしないか。自分のものよりも細く頼りなく柔らかな腕に今にも縋ってしまいそうで、冷静でいられる自信がない。だからと言って振り払う勇気もない。人に触れられるのを厭う理由に等しく、刹那は自分から動けなかった。 「ごめんなさい、ありがとう、刹那」 マリナが自然な動作で身体を離す。乱れた髪を緩やかに直し、弱々しく口角を上げた。笑み返されることがないと分かっていても、この王女は躊躇いなく微笑むのだ。 マリナが一瞬前までいた腕の中の空気がどろりと濃くなった気がして、刹那はそっと息を潜めた。吸い込んだが最後戻れなくなる予感が心臓を過ぎり、振り払うようにマリナに背を向けて元の通りに歩き出す。マリナがそっとついてくるのが足音と震動で分かる。マリナの気配を探ることにばかり長ける自分に嫌気が差す。 今までで一番近づいたかもしれない、と思うと、夜風に似た胸騒ぎがした。 |