幸福の定義 「ご飯ですぅ!」 甲高い声がドア越しに響いて、了承もしないうちにその少女は部屋へ踏み込んできた。簡素な食事を載せたトレイを携えて邪気のない顔がにこにこと笑いかけてくるのを見て、沙慈は嘆息せずにはいられない。どこもかしこも無邪気な子供の匂いをまとわせているこの娘が果たして今の自分と相手の立場を理解しているのかすら、沙慈には酷く怪しく思えて仕方ないのだ。 動くたびにミニスカートの裾の際どい動きをするのが、密かに沙慈の懐かしい記憶を刺激した。反射的に、違う、と心中で反駁する。こんな短いスカートをひらひらさせて姦しい声を立てて笑う女の子は、醜い戦争の中にありはしない。 「駄目ですクロスロードさん、溜息をついたら幸せが逃げるです!」 少女が開口一番文句をつける。お節介もいいところだ。ミレイナ・ヴァスティと言ったか、一目見たときから苦手という印象ばかり抱いていた。ずっと昔、同じ意識を金髪の少女に持った覚えがある。 「幸せ?」 意味を解さないままに沙慈は言葉尻を捉えた。遠い昔当たり前に触れていた冷たい懐かしい響きに、情けなさと苛立ちが込み上げてくる。不幸を知らずに幸せを感じられるものか。自分が何をしたと言うのだ。理性が相手は子供だと口早に説得する中、女だろうが子供だろうが所詮ソレスタル・ビーイングだと嘲る感情が勝った。それは争いを勧める考え方に似ていた。 「僕が幸せにでも見えるのかい、君には」 浅ましい侮蔑と皮肉を語調に含ませた瞬間、心臓が俄かに激しく打った。多少の理性が戻ったのか、自分は傷つけないと言っておきながらこれでは相手と同じだと沙慈は即座に後悔した。他人に対してこれ程意地悪い顔をしたのは初めてで、動揺と焦燥が後からどんどん沸き起こる。弁解の言葉を急いで考える間もなく、ミレイナが仁王立ちで言い返した。 「見えないから、溜息は駄目って言ってるです!」 ぷく、と頬を膨らませてミレイナが唇を尖らせる。顔立ちも育ちも違えど、少女と呼ばれるものはある程度の共通項を持つらしい。侮蔑も皮肉も通じなかったことに安堵と新たな苛立ちを覚える。話が通じない諦めを懐かしく思い、そこで沙慈は先ほどから自分がミレイナに誰を重ねているかに漸く気付いて、責任転嫁も甚だしくミレイナを苦々しく思った。いちいち塩辛い傷を掘り返す所作が目障りである。 駄目だ、冷静になれ。いつかルイスに会うときに胸を張れるような人間でないといけない。 ――本当に、そんな日が来るのだろうか。 「今更、多少の幸せが逃げたところで変わらないよ」 精一杯理性で選んだ言葉を口にした途端、一人でこの部屋で何時間も蹲りながら身体中を駆け巡った悲痛な思いが具現化して、思わず涙を零しそうになった。ミレイナの前で弱みを見せるわけにもいかず、唇を引き結んで俯き、ぐっと堪える。みっともない姿をもう誰にも晒したくない。 仁王立ちのまま立ち尽くしていたミレイナが、不意に微笑んだ。 「クロスロードさんはとても幸せだとミレイナは思うですよ?」 耳を疑う。聞き捨てにならない。自分はこの少女を含む組織のせいであらぬ嫌疑をかけられているというのに、この上に何を言うのだろう。本当に立場を分かっていないのか。 「何故、」 「セイエイさんがここに連れてこなかったら、クロスロードさんは死んでたですよ。クロスロードさん以外は全滅だったでしょう? 凄くラッキーです!」 ミレイナがきっぱりと言った。確信を持った瞳は、苛立ちと怒りと憎しみと他の汚い感情でどろどろに焦がされた沙慈には眩しいほど、濁りも淀みもなかった。それが無性に沙慈は悔しい。彼らの被害者たる自分が嫌なもので汚れていくのに、加害者に与する彼女はそうありたいと願う形できれいに澄み切っているのだ。 否、ミレイナの考え方はどこか沙慈を哀しませてもいる。ミレイナが幸せだと指し示す事柄は、決して九死に一生を得たことや一人だけ助かったことではなく、ただ、命があることなのだ。この組織がそうさせているのか、或いは彼女の性質なのか。 「……君は、今、自分が幸せだと思うのかい」 沙慈はわざとミレイナの言葉に答えず、質問を切り返した。どうしても聞いてみたかった。きっと、四年とちょっと前の彼女にしたら、学校の不満や母親の文句をさんざん並べて、しかし最後に可愛らしい笑顔で幸せだと答えただろう。 「思いますよう」 ツインテールの髪の先を揺らし、ミレイナは即答する。この即答振りは、沙慈がたじろいでしまうくらい真っ直ぐと自分を持っているからだと思う。眩しい瞳が沙慈の網膜をはっきりと狙い捉える。 「ミレイナにはパパとママと、仲間がいますです!」 ――嫌味に聞こえないのは、何故だろう。 遥か昔、今自分が閉じ込められているここが雲の上の話だったとき、或いはミレイナの同い年の時分、沙慈はこんな答え方を知らなかった。決定的な過ちを犯した心地がして、ひたすら胸が苦しい。誰にも合わせる顔がない。これは、姉がいること、彼女がいること、友達がいること、衣食住に不足がないこと、健康であること、生きていること、全てを当然のこととして享受していた罰なのか。あまりに残酷過ぎる。 「あ、ミレイナ、そろそろお仕事に戻らなくちゃいけないです」 端末の時刻を確認したミレイナが、トレイを壁際にそっと置いて踵を返した。身体のどこも細く丸みを帯びていて、まるで争いに結びつかない。しかし、間接的にせよこの少女の手によって命を落とした者がいる事実は変わらない。 「君は、」 声を出すと、喉が渇いているのをひしひしと感じた。唾を飲み下し、沙慈はふと足を止めて振り返るミレイナに問うた。 「君は、どうしてここにいるんだ?」 長い睫毛一瞬きょとんとし、それから今日何度目かの華やかな笑顔が答えた。 「誰かがやらなくちゃいけないからです!」 「……そう」 「ではでは、きちんと食べるですよークロスロードさん! ご飯は貴重ですからね!」 最後まできんきんと高く姦しい声で言い残し、ミレイナはそそくさと消えた。沙慈はのろのろとした動作でトレイを引き寄せる。 この天上人の集団に混ざってから、今まで踏みしめていた地が上手く踏めなくなっている。戦争も人を殺すことも起こしてはいけないことで、誰でも分かることだ。だが、この考えへの反論が沙慈には一つも思いつかないのに、日に日にこの人殺し集団に洗脳されている気がしてならない。考えれば考えるほど憂き目ばかり目に付く。 (誰かがやらなくてはいけない) 刹那の言葉だ、と思う。刹那がこの船に来たのは自分と同じときで、ミレイナとも初対面の筈だった。この短い間にどれだけのやり取りを交わしたのか分からないが、受け売りという可能性は低いだろう。皆が同じ理想のもと動いているのだ。 (不幸を以って幸福を知ったのでなく、) (あの子は何故呼吸をするように理解しているのだろう) 味気ない宇宙食を噛み締めると、やりきれない自分の味がした。 |