ウグイスのこえ 青く透けている端末の画面越しに、柔らかな唇の嬉しそうに笑むのが見えた。家一つ買える指輪を事も無げにつけたそのか細い指でキーボードを幾つか叩いて、また何万という人間を苦しませたり楽しませたりしたのだろう。この笑顔を美しいと言う人もいれば、ネーナのようにただ悪そうだと思う者もいる。二つの比率は歴然としたもので、だからこの女が加害者であるとも知らない被害者が日々増え続ける。 上等なコンディショナーの香りを漂わせる髪をさらりと掻きあげ、その手で傍らのアフタヌーンティーのカップを手にした留美が顔を上げた。壁際に立ってぼうっと留美を見遣っていたネーナは、不意に底の知れない瞳とぶつかって驚いた。盗み見をしていたわけではないのに、この切れ長の目に見つめられると咎められた心地がする。 「ネーナ、今しばらく休暇ですわ」 留美が真意の読めない笑みを浮かべて言った。お嬢様の声はウグイスだ、とネーナは時折思う。このだだっ広い家の資料室でふと閲覧したものだ。金持ちはきれいな声のウグイスを育てるとき、美しい鳴き方だけを覚えるようにときれいな鳴き声しか聴かせない。汚い鳴き方を一度覚えてしまえば、そのウグイスは二度と美しい声を出せなくなるのだ。 「はい、お嬢様」 汚い鳴き方を刷り込ませたい、などと思っていることはおくびにも出さず、ネーナは恭しく言った。別にお嬢様と呼ぶことを強制されたわけではないが、そこら中から札束の匂う環境で育った留美は、まさしくネーナからすれば『お嬢様』なのだった。 「一週間ほど、バカンスに行ってきてもよろしくてよ」 言いつつ、留美が音も立てずに茶を呑む。金持ちは何杯でも茶を呑める癖に、ケチ臭くちょっとずつ飲み干す。この家に来た頃、それが我慢できずにネーナは何杯も茶をおかわりした。空腹でも不味い携帯食料しかなかった生活も経験したネーナからすれば、食べられるときに美味しいものを沢山腹に収めるのは当然である。 (貧乏臭い考え方) 「あいにく、ネーナは独り者です」 「一人はお嫌い?」 「バカンスは恋人や家族と行くものでしょう」 バカンスなんて単語すら、ネーナは使ったことがない。前者も後者も、今のネーナは持ち合わせていない。休暇の使い道など一つとして思い浮かばない。兄達の墓参りくらいできるだろうかと考えて、そもそも墓など立てていないことに気付いたネーナはふと口許を緩めた。いつか仇討ちしてやりたいとは思っているものの、墓も立てず具体的な行動にも移らない不肖の妹を、天国の兄達はどう見ているのだろうか。 (死者は口を利かないのよ。天国も地獄も関係なく) 「では、紅龍を連れては?」 留美がカップを置いて、あの悪そうな顔で笑んだ。歯は決して見せない笑い方がいけないのだとネーナは不意に思う。 「冗談じゃありませんお嬢様。好きでも親しくもない人と行くなんて」 癖で舌を突き出しそうになって、すんでのところでやめる。きっと、このウグイスのお嬢様はそんなことされたことがないに違いない。 「紅龍はお嫌い?」 「嫌いです。喋らないし、根暗だし」 この問題に関して取り繕う必要はない。彼は留美の従者であり、詰まるところネーナと同じ立場であるからだ。否、脳量子波を有している分、留美に重宝されている自分の方が彼よりも位は高いかもしれない。 (どちらにしろ、この女の下なのだけれど) 「明るい殿方が好み?」 「考えたことありません」 「お兄様達を慕っていた?」 「ニイニイは好きでした」 留美の質問は時折何がしたいのかよく分からない。権力の力は莫大な余裕を生み出し、それは他人を弄ぶ態度へ繋がる。留美は決してネーナや他の人を撹乱するのが好きなのではなく、きっとそれが生来の生き方なのだ。うつくしい声しか知らない、ウグイスのように。 カップからはもう湯気も立っていない。冷め切った紅茶を留美は優雅に飲み干し、端末をいじりながら言った。 「まあ、どう使うかは貴女のお好きなようにして構いませんわ。旅費くらいは出しましてよ」 「ありがとうございます、お嬢様」 ぷつん、と液晶画面が切れた。コンパクトな端末をポケットに流れる動作でしまい、留美は立ち上がって部屋着にしては高価なドレスをなびかせ、歩いていく。ネーナはこの家に来てから覚えた恭しい礼をして、留美の気配が去るまで待った。鼻先を紅茶とコンディショナーの匂いが掠めた。 顔を上げ、ネーナも与えられた自室に引き上げることにする。部屋から出るとき、後ろで食器を片付ける音がした。ネーナは専ら戦闘要員で、こうしたこまごまとした家事はできない。したこともないし強制もされないので、ネーナは食べた皿すら片付けない。部屋がそれでもきれいなのは、ものが少ないからである。 入り口まで来て一瞬だけ振り返ると、紅龍が盆に全てのティーセットを載せ終えたところであった。そう言えば、ずっと同じ部屋にいたのだった。 (空気みたいな扱われ方の癖に、どうしてずっとここにいるのだろう) 二人の面差しはどこか似ている。兄妹なのかもしれない。深い事情は知らないし、知りたくもない。けれど。 (あの女が、紅龍の名を呼ぶのは、久しい) わざとなのか。ウグイスの声は人を惑わせる。 誰よりも惑うに違いない男は、黙々と食器を片付けている。 (ウグイスの声を濁らせることができるのは、) (もしかしたら、この男一人なのだろうか) |