亡霊


シュン、という聞き慣れた音で自動ドアが開いたことに気付き、ライル・ディランディは慌てて右手で煙草を揉み消した。途端に手の平にじわりと針を押し入れられるような痛みが走り、即座に後悔する。こんなことをしたところで臭いも煙も染み付いているから、ばれないわけがなく、今更揉み消そうにも遅い。それでもわざわざ痛い思いをして隠そうとするのは、一種の条件反射だと思っている。ちらと脳裏を過ぎる、あのやたらときれいな顔の青年にまた高圧的な物言いで罵倒されるのかと思うと、溜息をつかざるを得ないのだ。
正直なところ、ライルはあの不透明な青年が苦手で仕方なかった。最低限の距離までは馴れ馴れしくも自ら歩み寄る癖に、決して馴れ合う空気は作らない。かと言って、気にも留められていないかと思えば、時折何もかもを透視するような瞳が刺してくる。それが果たして、兄に由来するものなのか、自身の過失から生み出されるものなのか、ライルには判断のしようがなかった。それを推し量ることのできる記憶は兄にはあってもライルにはなく、しかし、少なくともティエリアは煙草が嫌いらしい、というのをライルは知っているから、こうして手袋の小さな焦げ目を心配しているのである。
まだ兄が生きていたという四年前、この巨大な宇宙船の中で、一体何があったというのだろう。件のティエリアにも、ライルをここに連れ込んだ張本人の刹那にも、結局何も聞けないでいる。
「ああ、あなたですか」
振り返らずにいるライルの背中に、予想に反した声がかけられた。おやと思って振り向くと、アレルヤ・ハプティズムが丁度歩み寄ってくるところだった。左右に違う虹彩を持つ彼の瞳は、優しく友好的で、且つ臆病だ。
「あはは、煙草、ティエリアに怒られますよ」
ライルが握り潰しているものに気付いて、アレルヤがにこにこと笑う。この男もこの男で読めない部分が多いが、少なくとも他のマイスターよりはずっと喋りやすいとライルは思っている。刹那も、ティエリアも、どうにも別の言語を繰っているようで、ライルにはそれがどうしても面倒に思えてならない。思想の相違だとか、そんな言葉では済まされない母国語をあの二人は持っていて、それは確実にライルに理解できるものではないらしかった。その点、アレルヤはきちんと言葉の通じる安心感を持っている。
兄は彼ら三人――特に、うち二人――の言葉を、どれほど理解できていたのだろうか。ライルと別れた兄の辿った道のりは、それまで自分と全く同じ言葉を持っていた兄に、自分の分からない言葉を教えてしまっていたのだろうか。
「秘密な。勘弁してくれよ」
にやっと笑いながら言うと、アレルヤは呆れたように肩を竦めて笑い返した。そうだ。こうした、ライルが今まで覚えて使ってきた言葉が、あの不思議な二人には通じなくても、アレルヤには通じるのである。
「黙っておきますけど、臭いばかりは僕も庇いきれませんからね」
アレルヤはそう言って、ふわりと地を蹴るとライルの隣に立ち、しかしライルの方はちっとも見ずに窓の外の深い宇宙へと視線を向けた。隣に立てばよく分かるもので、アレルヤは本当に背が高く体格も良い。自分よりも頭一つほど小さい――それでも、随分と伸びたらしいというのを耳にした――刹那や、性別を履き違えて生まれてきたに違いないようなティエリアと違い、きちんとモビルスーツを駆るに相応しい容姿をしていて、それもどこかライルを安心させる。決して、死んだ兄が所属していて、自分が連れて来られたこの組織が、ふわふわと捉えどころのないものではないのだというのを、ライルはどこかに証明してくれるよう求めているようだった。
「で、お前は何しに来たんだ」
どうやらアレルヤ相手には気遣う必要がないらしいと判断したライルは、そっと握りつぶしていた煙草を手持ちの灰皿に落とし、新たな煙草を取り出すために受け取ってまだ日の浅い制服のポケットをまさぐった。動きを覚えている指は何も考えないうちに煙草を一本器用に取り出してライターで火を素早く灯し、待ち侘びた唇に煙草を咥えさせる。
「別に、何かあるわけじゃないけど、暇で。僕にできることは、今はないし」
あなたも一緒でしょう、とアレルヤは窓に映るライルに向かって苦笑した。次のミッションに備えてマイスターは休めと指示が出ていたのをライルは薄ぼんやりと思い出し、しかし何かと働き回っているらしいティエリアのことを思い浮かべて、やはりアレルヤに親近感を持たずにはいられないのだった。
「なあ、」
「はい?」
アレルヤならば、ただのつまらない愚痴として聞き流してくれるだろう。
自分の知らない兄の残滓がそこかしこに漂うこの船の中で、それらの混じる空気を吸ってすっかり肺にこびりついてしまった。
すう、と香りを吸い込み、溜息のように煙を吐き出して、ライルはゆっくりと口を開いた。
「俺と兄さんって、そんなに似てる?」
窓に映るアレルヤの瞳の上を、隕石が過ぎった。一呼吸置いて、何事もなかったように瞬きをするアレルヤが答える。
「そりゃ似てますよ。双子でしょう。髪型とか、声も近いし」
まあ、四年前に比べれば老けましたけどね、と軽口を叩くのは、ライルを気遣っているのだろうか。
「誰か何か言ったんですか? そんなこと聞くなんて」
アレルヤが、初めてライルに向き直った。アレルヤはとっつき易い性格をしているが、唯一ライルが苦手に思うのは、左右の色の違う瞳だった。何故そのような目を持っているのか、生まれ持ったものなのか、ライルは知らない。ただ、優しく穏やかで、臆病さも抱えていて、しかしそうした硬い膜の裏側に何かを隠し持っているような気がしてならない瞳に無遠慮に覗き込まれると、どうして良いか分からずにライルは目を逸らしてしまうのだ。
「そういうわけじゃねえよ。……ねえけど、やっぱ、皆、兄さんと俺をどっかで重ねてるんじゃねえかな、って思って。何を求められているのか、俺には分からないんだ」
代わりにはなれないし、なるつもりもない。しかし自分は兄の乗っていた機体の後継機に兄と同じコードネームを名乗って乗り込んでいる。それは、やはり、自分に兄の代わりたる義務が発生している証拠ではないのか。
「俺、兄さんに、もっと似てた方が良かったのか?」
ぽろりとこぼしてしまってから、しまったと思った。本音に近い部分の愚痴を、底の見えない男に示してしまった。マイスターである以上、アレルヤのことは信頼しているつもりだが、それでも、譲れない線は存在する。許してしまった自分に軽く憤りながらアレルヤを横目で見遣ると、相変わらずの色の違う視線でこちらを子供のように眺め、そして唐突に言うのであった。
「兄さんて、呼ぶんですね」
「は?」
脈絡のなさにライルは思わず気の抜けた声を出す。それを見て慌てたようにアレルヤが付け足した。
「いや、ずっと思ってたんだけど、双子だけど兄さんなんだなって」
「だって、兄さんは兄さんだろ」
「ううん、えっと、」
何がおかしいのかと首を傾げるライルに、アレルヤは忙しなく視線を彷徨わせて言葉を捜す。彼の言わんとしていることは何となくライルには通じるのだが、ここで彼の言葉を待ってみるのも面白いかもしれない、と思い、アレルヤがライルの知っている言葉を探すのを黙って見つめた。
やがて、長い前髪に隔てられた色の異なる目が、定まった。
「僕にも、双子みたいな存在がいて、まあ、双子じゃないんだけど、でも彼と僕は同列っていうか、どちらが先というのはなかったというか――うーん、彼の方が強かったけど、でも、彼は僕のことをアレルヤと呼んだし、僕も彼をハレルヤと、――あ、彼はハレルヤっていうんだけど――そう、呼んでいたから」
そこで一旦、アレルヤは言葉を切った。ライルは適当に相槌を打ちながら、随分とおめでたい名前の兄弟だなと考えていた。アレルヤにハレルヤ。名を受けたその瞬間から洗礼を受けたようなこの男は、優しい面持ちで人殺しをしている。
「だから、双子にはそういうの、ないと思ってた」
「兄さんは兄さんだよ。俺と、あと一人妹がいて、俺達の兄さんだったんだ。面倒見も良くて」
アレルヤを避けるようにして再び煙を吐き出し、ライルはゆっくりと流れていく隕石に目線を移して、遠い昔の食卓の光景をそこに映す。パンが余ったとき、一番に譲るのは兄だった。エイミーがこぼしたときに逸早くナプキンを手に取るのも兄だった。ライルの皿が空になると勝手にまた盛り付けてしまうのも兄だった。
そうした、ライルの記憶の底で屈託ない笑みを浮かべる兄は、本当にこんなところにいたのだろうか。
「あはは、想像できます。彼は、凄く面倒見が良かった」
アレルヤもライルに倣って再び窓の外を見遣った。困ったような笑い方を見て、これが彼の処世術なのだ、とライルは不意に感じる。
「へえ」
「ティエリアや刹那の世話をよくしていましたよ。特にティエリアなんか、今が想像できないくらい頑なで、でもそれがほぐれているのは確実に彼のおかげなんです」
アレルヤが嬉しくて堪らないようにそう言うから、ライルは少し驚いた。あのティエリアが人の世話になるところなど想像もつかない。
「あいつは今も頑なじゃねえか」
「あなた相手だからですよ。煙草なんか吸うからです」
そこでアレルヤがこちらを少し振り返った。長い前髪が揺れて、片方だけ見える瞳が見え隠れする。目尻も口許も和らいでいるのに、やはりその顔をどこか直視できなくて、ライルは気付かない振りをして、「お前だって注意しないだろ。共犯だ」と笑った。笑いかければ、アレルヤは大抵笑い返す。やっぱりこの男は優しくて臆病なのだ。
「な、気になったんだけどさ、」
あてつけのように大分短くなった煙草を吸い込み、吐息を煙に言葉を雲隠れさせて、ライルは問う。
「ハレルヤって、……死んだのか」
初めて、アレルヤの細い目が強く開かれた。窓に映るそれを見て、ライルは漸く自分はこの男のこの顔が見たかったのだと気付く。色の違う虹彩が動物的なうねりを以って彷徨い、やがて諦めた唇が答えた。
「たぶん」
それ以上の答えを、薄い唇は拒絶していた。沈黙の間、もたもたと泳ぎ慣れないように宇宙の闇を滑っていく船の感じられない筈の震動が、足許から這い登って顎をくすぐられるようだった。奥歯を強く噛んで堪え、ライルは少ない煙に「そうか」と混じらせて調整された空気を乱していく。同じく兄弟を失った者同士だというのに、ちっとも近しいと感じないのは、何故なのだろうか。先ほど覚えた親近感はいつの間にか萎えていた。
「あの、」
アレルヤが、ぽつんと呟いた。ライルは沈黙で先を促すと、アレルヤはやはりどこかうろうろと言葉を探していて、なかなか見つけられないようだった。根気良く待ち続けるうちに煙草は使い物にならなくなって、新たに灰皿に落としてしまう。煙の残り香が鼻先を掠めるのが、ライルは好きなのだ。
「色々と、難しいことが、たくさんあるけど、でも、」
待ち続けられていることに申し訳なく思ったのか、定まらないうちにアレルヤは口を開いた。覚えたての言葉を懸命に使って、アレルヤはライルに何かを訴えようとしているらしい。これからも命を預け合う仲だ。最後まで聞き届けてやろうではないか。


「頼りにしています、……ロック、オン」


言ってから、アレルヤは俄かに身体を翻し、「僕はもう行きますね」と口早に言って、何を返すか迷っているライルをあっという間においていってしまった。機械的な音が空間を隔てた瞬間、ライルはやっとそのことに気付いた。
(初めてロックオンって呼んだか)
ティエリアを含む何人かのクルーは未だ頑なにその名を避けている。スメラギや刹那を含む数人は舌に馴染ませるように何度も呼ぶ。何れにしろ呼び難いという部分は変わりなく、その簡単な発音はこの船の上で発されるたびに兄の残り香を孕んでライルの中に滑り込んでくる。激しく痛めば余程良かっただろうに、それは胃痛に届かぬ程度の疼痛を時折思い出したように発するだけなのだ。
アレルヤときちんと話すのは初めてかもしれなかった。ティエリアや刹那といった曲者にばかり気遣う日々で、あまりに平凡に穏やかなこの男に対する注意を怠っていた。
(あいつも、)
ロックオンの名を呼べなかった一人なのだ。
思わず癖の強い髪をがしがしと引っ掻き回す。迂闊だった。装いに騙されて、他の者と等しく兄の亡霊にとりつかれている男に、そうと気付かず引き寄せてしまった。同一視されないために好奇心を抑え込んでいたというのに、これではふりだしだ。
一頻り髪を掻き回した後、ライルは窓に兄と同じ顔を映した。幼い頃からそっくりの自分達。先ほどアレルヤに問うたときに、欲しい回答は得られなかった。見た目が似ているなどというのは、誰よりも自分が知っている。そこではないのだ。
(兄さん、兄さんは、)
死してなお、恐ろしい影響力を持ち得るほど、立派な人間だったのか。
(俺は、どう振る舞えばいい)
越えなければいけないのか。越えてはいけないのか。
答えをくれる人はいない。


煙草の匂いだけが、薄くライルに張り付いている。







二期四話辺りで、最初は皆にロックオンて呼ばれないライルを不憫に思ったアレルヤが頑張ってロックオンて呼ぼうとする少女漫画展開の筈でした。
空気と空気の会話。ほんと、そろそろ、二人ともどうしようもない空気感どうにかした方がいいと思う。
会話が実は一個も噛み合ってないのは仕様(笑
09/01/07