注意! ・戦後に沙慈とルイスが幸せに同居している話です。 ・ルイスは義手です。 |
おだやかな かちゃん、という軽やかにものが砕ける音とルイスの細い叫びが重なったので、沙慈はかけていたアイロンを倒れないように立ててから慌ててキッチンへと向かった。向かいながら、随分とらしくない悲鳴しか上げなくなった彼女を思う。その迷子の動物のような弱々しい声ははじめ耳慣れぬものの筈であったのに、いつの間にか沙慈はそうでない声を思い出せなくなってしまった。 「どうしたの?」 キッチンの入り口から覗き込むと、ルイスは床にしゃがみ込んでいた。気分でも悪いのかとその可哀そうなくらいに小さな背中に寄り添ってやると、ルイスは僅かに震えながら言った。 「お皿……割っちゃった」 肩口に床を見ると、柔らかなブラウンのスリッパに包まれた爪先から丁度一歩分離れたところで、慎ましやかな秋の花の模様が浮いた皿が大きく幾つかのパーツに分かれていた。走る亀裂はしかし花を引き裂くことはなく、沙慈は何故かそこに安心する。少し値段の張るものだった気もするが、またルイスと共に買いに行けば良い。時間は有限だけれども、新しい皿を買いに行くのに必要な分はまだまだ沢山ある筈なのだ。 「手、手が滑っちゃって……ごめんなさい」 言いながらルイスが素手で拾おうとするものだから、沙慈はその右手首を慌てて掴んで止めた。 「怪我するよ。僕が拾う」 「でも、」 「こういうことは男にやらせておくものだよ、ルイス」 ビニール袋を取っておいで、と言うと、ルイスは逡巡しながらも立ち上がり、ロングスカートを翻して忙しなくキッチンを出て行く。スリッパの拙い足音を聞きながら沙慈は切断面に触れないように大きな欠片を拾い集めた。陶器の白さはどこか目に沁みて、さっきまで一体だったもの達は擦れ合うたびに爪の奥が痒くなるような音を出した。食べるときは気にもかけなかった花も、こうして使えなくなってから見るととても美しいもののように見えてきて、勿体無いことをしたと沙慈は少し思う。もっと、使うたびにこの美しいものを堪能して愛でてやれば良かった。いつどうなってしまうかなんて実は誰にも分からないことなのだ。それが、一分後であっても、百年後であっても、平等に。 程なくして戻ってきたルイスの差し出すビニール袋に大きな欠片を入れると、今度は台拭きで細かい欠片を拭い取った。念のため沙慈が手の平でその辺りを探り、「もう大丈夫だよ」と背後に立ち尽くして一皿分の重みを入れたビニールをぶら下げているルイスに言うと、ルイスは目を伏せて「ごめんなさい」と答えた。 「ペアで買ったお皿だったのに」 「いいよ。また買いに行こう」 沙慈はさり気なく彼女の指から袋を受け取って、台所のゴミ袋の隣に置く。放っておけばルイスの左手はいつまでも皿だったものを一緒くたにまとめた重みを持っているに違いなかった。 「まだ、うまく使えないの」 沙慈から目を逸らしたまま、ルイスの右手がまがいものの左手に触れた。何度も辿るように彼女の右手の指は手の甲を行き来するが、そこから己の指の腹のうねりや温みを感じることはもはやルイスにはなかった。それを思うと痛ましくて仕方がないのだが、だからと言って沙慈にはどうしてやることもできないから、ただ黙ってその細い肩を抱き寄せてやるだけであった。 「焦ることはないよ。ゆっくり、慣れればいい」 かけてあげた言葉は、半分は本当で半分は嘘だった。そのまま宥めるように抱き締めると、腕の中の身体が身じろぎをして、ゆったりとした動作で沙慈の背中に腕を回す。そうされることが、何よりも沙慈の安心感を優しく撫でた。確かな体温を持つ手の平に背筋を探られ、額が胸に押し付けられるたびに、その部位から沙慈は身体中が充実していく心地がした。自分が愛した通りに愛されていることを確かめられるのだ。 別に、義手を使いこなせるようにならなくても良い。辛い思いをするくらいなら何もしなくても良い。ルイスのことは全部自分がしてやりたい。ぽっかりと空いた時間は永遠に戻らないが、それでもそこを埋めたくなってしまう。 けれど、ルイスはどうやらそれを望んでいないようだった。料理を作れるようになりたいと言ったし、家のことも沙慈と分かち合いたいとも言った。それはまた、同じように閉じることのない空洞を慰めるものだったから、沙慈は素直に喜んでそれを受けた。 皿を失くしてしまったことは、だから、必要なのだ。何も咎める気持ちは起きない。 「ねえ、ルイス、」 そっと柔らかい髪の毛を指で絡め取りながら、まだ顔を上げないルイスに囁いてあげた。 「午後に、これと同じお皿を買いに行こう? 久しぶりに街に出て、それから散歩をしよう? 今日は天気がいい。きっと気持ちがいいよ」 抱き締められていた手が緩み、沙慈は名残惜しく思う。ルイスがやっとのことで顔を上げた。泣いてはいなかった。血液の通った色をしている唇がほんの少し笑んだ。 「……そうね、沙慈」 言って、二人はゆっくりとなぞるように離れた。ずっと前から互いを知っている筈の二人は、けれどこうした呼吸は最近覚えたばかりだった。きっと、こうしてこれから覚えていくことはまだ山ほどあるのだろう。沙慈はそうした物事の下に、歴然と彼女の髪が長かった頃の話が含まれていると信じている。 ルイスは皿洗いに戻り、沙慈も電源を入れたままだったアイロンを思い出した。戻ろうとして、しかし不意に何か物足りない気がしたので足を止めた。否、足りないのではない。さらに欲しいのだ。 「ルイス、」 そっと歩み寄って、「なあに」と振り返る額に沙慈は小さなキスを送った。ルイスは少し驚いて、けれど沙慈の頬に返事をくれた。 今日も、僕達は、幸せなのだ。 |