許しの距離 管制室に入ったとき、額を突き合わせて熱心に何かを取り組んでいたらしい二人が同時に顔を上げたのを見て、ライルは、しまった、とこっそり思った。他のクルーの姿を求めて無意識に管制室を見回すが、勿論のこと助け舟を出してくれる者は誰もいない。 随分と不思議な色に染め上がっている髪を柔らかに揺らす少女の顔がみるみるうちに強張っていくのが分かる。笑った方がずっと可愛いのに、と思ってから、彼女からそういった表情を今奪っているのは他ならぬ自分であることに思い当たって、ライルは酷く勿体無い気分に陥る。少なくともライルは彼女の笑顔を真正面や間近から見ることはできないのである。下心があるわけではないが、自分のあずかり知らぬところで常に生じている齟齬の被害を誰よりも被っていることが、どうにもライルを納得させかねているのだった。 一方、真っ直ぐな髪を揺らして彼女からライルに視線を移した青年は、臆することもなく眼鏡の向こうからこちらをじっと見て、毅然とした口調で「何かあったのか?」と問うた。 「いや、データの見方がちょっと分かりづらい部分があって、」 「ティエリア、」 ライルの言葉を遮るように、唐突にフェルトが声を上げた。咄嗟にライルは口を噤む。フェルトの表情は硬く、まるでライルなどいないというようにティエリアだけを見ている。その実それはライルを意識し過ぎていることを裏付けていて、何とも居た堪れない気持ちになった。神経質そうに見えてそのような機微を全く感知しないティエリアの、髪を翻して振り向いたその耳元に、身を乗り出すフェルトの唇が吸い寄せられて二言三言何かを言った。ティエリアに耳打ちをするということは即ちライルには聞かせたくないことなのだ。内気そうに見えて随分と露骨なものだな、とライルは溜息をついた。 嫌われるようなことをした、とは自覚している。 他にやりようがあっただろう、というのにも反論はできない。 けれど、この奇抜な色の髪をした少女には、結局口で言っても分からなかった。四年前と言えば彼女はまだ確かな子供と呼べる存在だった筈だ。恋を知ったばかりの少女は理屈に囚われず、現に、兄ではないと言ったにも関わらず彼女は閉じた瞼の裏に兄の姿を映して、ライルの声を手繰るように耳に受け止めていた。 そうして、ライルを目の前にして彼と共有し得ない部分ばかりを漂わせるフェルトはどこか幻めいていて、あまりにも純粋で可愛い顔をしていた。 破壊衝動と呼ぶほど強いものでもなく、少女の控えめで無遠慮な視線をあちらこちらから受け止めていたときから何かしら行動は起こすつもりでいたから、しかしてライルは彼女を隈なく取り巻くその実体の掴めないものを振り落としてやるために小さな顎を掴んで持ち上げたのだった。 囁きを受けたティエリアが少し困ったようにフェルトを見返した。フェルトは答えずその視線を避けるように床を蹴って、あっという間にライルの横をすり抜けていく。背後でドアの閉まる無機質な音がして、瞬きをしないうちに二人はぽつんと取り残されてしまった。 ティエリアと二人だけというのはそれはそれで気が詰まるものなのだが、ティエリアの側がそのようなことを一つも気にしない性質であるのもまたそれを助長させる。 「フェルトと何かあったのか」 開口一番、最も突っついて欲しくないところをティエリアは迷わず口にする。数日分のティエリアしか見ていなくてもライルには分かることがあった。ティエリアは空気を読むことができないのだ。そうした聞きたがりはある種子供の好奇心に似ていて、衒いもない正義と無邪気さを振りかざすから、ライルはやっぱりティエリアが苦手なのだった。 「別に。何でそう思うんだ?」 「今の態度を見れば一目瞭然だろう」 きれいな顔を少ししかめて、ティエリアは怒っているらしかった。冗句で可愛い教官殿と口走ってしまったが、あながち嘘でもない。怒っていても美人のままでいられるのは、本当に美人である証拠だと思っている。 もう少し別の方向に引っ張れば、美人は崩れるだろうか。 「それより、ここ。ここの数値って結局何なんだ? ハロの説明だとよく分かんねぇんだよ。モビルスーツなんて、俺、初めてだし」 話を逸らす意味もこめて端末のデータを指差すと、ティエリアは顔をしかめた上に少し溜息をついたが、大人しく模範解答のような説明をすらすらと述べた。ハロの説明と大差ない言葉の羅列に、ライルは諦めて別の者に聞くことを決めた。ティエリアは、言葉の上でライルが初心者であることは納得しているが、本質的な理解をしていない。分からない言葉で説明されても分からないだけであることを知らないのだ。 一通り説明を終えたティエリアは瞬き二つ分口を閉じてから、ライルから目線を外した。 「あまり、フェルトに無神経なことは言わないでくれ」 あまりのセリフに笑っていいのか怒っていいのか分からずにライルは固まる。無神経なのはどっちだと言ってやりたいが、きっとティエリアにはこの皮肉が通じない。ティエリアはさらに表情を重くして忍ばせるように囁く。 「俺から言うことではないかもしれないが、」 言いつつ頭が俯くにつれ、低重力に従ってティエリアの作ったように真っ直ぐな髪が緩やかに流れた。これは少し真面目な話かもしれないと固唾を呑むライルの前で、ティエリアは酷く苦しげにその言葉を吐いた。 「――フェルトは、ニール・ディランディが好きだったんだ」 あまりに今更の事実を明かされて、ライルは暫し反応ができなかった。やはりこの青年は空気を読めないのだ。重々しくそう言ってのけたティエリアは、まるで大切な人形を乱暴に扱われた幼い子供のような顔でライルを睨む。嫌味を言われたり手厳しく注意されたりするより、そういう視線こそがティエリアの持つものの中でライルが何よりも呆れてしまうのだということを、ティエリアは絶対に気付けないのだろう。 「知ってるよ」 ライルが軽く笑みながら言うと、ティエリアは目線をさらに厳しくした。何故、知っている、とでも言いたいのだろうか。本当にどこまでも籠の中のお坊ちゃんだ。受け流すように顎を反らし、ライルは笑う。 「態度見りゃ分かる。それに、」 言葉を切ったことに、ティエリアは意味を見出してくれるだろうか。 「それに、ここの奴ら、皆兄さんのこと大好きだろ――特にお前とかさ」 「ロックオン・ストラトス」 嗜めるような声を出す癖に、ティエリアはライルを直視しなかった。薄いレンズは絶妙な角度で光を映してティエリアの瞳の色を隠し、ライルは敢えてその顔を覗きこまない。知っている。皆が兄の亡霊に囚われまいと躍起になっていて、しかし、何よりもライルの姿が妨げとなっているのだ。ティエリアも、フェルトも、いつだってライルを映す網膜に兄の影を少なからず宿している。 自分を連れ込んだのは刹那の独断だと言う。彼らに覚悟はなかったのかもしれない。お前が必要だと力説されたわりに、歓迎されているとは言い難いのも承知済みだ。 「でも、俺にゃどうしようもねえんだよ」 吐き捨てるような口調に、ライルは知らずに疲れが溜まっていることを知る。目を伏せたままのティエリアは、何も言わない。こういうときの切り替えし方を、兄は教えなかったのだろうか。こんなに子供っぽくて、危うくて、兄を好いていて、いかにも兄が世話を焼きたがるような存在に、兄は構わなかったのだろうか。 「……分かっている」 搾り出すようにティエリアは言って、顔を上げた。そのくすみのない色を、意志の強い顔だ、とライルはいつも思う。自分にはできない顔。きりりと眉を寄せてライルを見据え、間違いなど一つもないと信じる淀みのない声でティエリアははっきりと言う。 「君はニール・ディランディではなく、ロックオン・ストラトスだ」 言い聞かせているのだろうと察して、ライルは笑ってやった。そして、不意に一番拘っているのは実は自分ではないかと思い当たり、深呼吸に似た溜息をついた。 偉そうな口は利けない。ライルも、ティエリアも、フェルトも、確かに兄を孕んでいる空気の中できちんと呼吸をできるようにならなければいけないのは同じだ。 「そう思ってくれると嬉しいぜ」 口の端で笑うと、ティエリアも僅かに笑んだ。緩んでいるわけではないけれど、とても穏やかなその顔を見て、やはり美人なのだなと今更のようにライルは感じるのだった。 「よう、」 背後から声をかけると、一つ結びの髪が面白いように跳ねた。恐る恐る振り返るフェルトと三歩分の距離を取って着地し、ライルはとりあえず笑いかけてみる。案の定露骨に目を逸らされたが、爪先の向きを見る限り先ほどのように逃げる気はないようだった。 「ここのデータの見方、ハロの説明だとよくわかんねぇんだけど、教えてくれないか?」 言いつつ手元の端末を見せようとすると、それをフェルトは遮った。 「ティエリアに聞いたんじゃ、なかったの?」 決して強い口調ではないのに、不思議と人を黙らせる力をこの少女は持っている。やはり自分の側には寄りたくないらしい。ライルは一瞬だけ口を噤み、しかしなるべく笑みを絶やさずに答えた。 「あいつの説明じゃよく分からないんだ。ハロと一緒でさ」 フェルトの瞳が揺れて、強引に唇を奪ったあのとき以来、初めて目線が合った。その目線からは小さな怯えを読み取れたが、兄の影は見当たらないようだった。半歩近付いて端末の画面を差し出す。 「な、お願いだよ」 俺、モビルスーツなんて初めてだから、と付け加えて、ライルは後の言葉は呑み込んだ。これ以上、無遠慮に近付く権利はない。フェルトから歩み寄るのを待たねばならない。 フェルトは随分とたくさん瞬きをしてから、小さな声で「どこ」と呟いた。もう目線が合うことに抵抗はないようだった。漸く少し許された気がして、ライルはじわりと嬉しさが滲むのを感じながらもう半歩フェルトに寄った。 |