静かなる船


「グレイスさん、どうぞ、これ、」
壊れたシステムが浮かぶモニターを遮ったのは、透明な液体の揺れる容器と、それを握る小さな白い手袋だった。促されるままに受け取ると液体は容器の中で小さく丸く跳ね返った。暗がりに浮かぶミレイナの顔はモニターの白さに照らされて陶器のようにも見え、フェルトは何だか唐突に申し訳ないことをしている気分になる。顔の青白さは決して僅かな照明のもたらす闇のせいではなく、陽気に上がる口角がどこか弱々しいのも然りだ。
「少し休んでくださいです。グレイスさん、全然寝てないです」
そう言って、水を呑むように促すミレイナこそ、今一番休むべきなのかもしれないとフェルトは思っている。本人は気取られまいとしているのだろうか、しかし隠し切れていないのは若さなのかもしれなかった。ストローを緩く咥えてそっと吸うと口内が乾いていたことを思い知らされて、フェルトは焦った。
「ありがとう、ミレイナ。でも、今はこれを終わらせないと」
水を少し乱暴に飲み込みつつ、フェルトはシステムの復旧作業に戻る。指を動かしている間に無心でいられることが有難くて仕方ない。絶えず動いていなければ落ち着かなかった。自分にできることはこれだけなのだ。休みなど入れてしまったが最後、自分は二度と目を覚まさなくなるかもしれない。
トレミーの稼動音が静かに足から伝ってくるのは久方振りの感覚だった。気配の失せた船の、それでも繰り返される呼吸。あのとき、たった三人を乗せただけの鉄の塊は絶えず静寂を響かせていて、身体中に押し寄せては引く孤独を身を寄せ合って必死に消した。やがて、人はゆっくりと増えていき、船の音は小さく紛れてしまったけれど、フェルトはいつだってこの音を聴いていた。
今この船は随分と賑やかになった筈だった。慌しく皆が働いている筈なのに、管制室にはモニターの上げている電気と電気が擦れ合う僅かな音ばかりが細々と流れているだけだ。それは誰もが言葉少なになった証拠のようで、フェルトはずっと前にこの空気を知っているらしかった。失くしてしまった空気を埋められずに、沈黙を垂れ込ませる空気。きっと、自分は辛い記憶を醸されるのを最も恐れている。
ミレイナはまだフェルトの脇に立ち尽くして、モニターの光をその大きな瞳に反射させていた。瞬きをするたびに光が弾け、暗がりの中で空気がショートする音が聞こえる。いつの間にか、ミレイナの顔からは僅かな笑みも落ちていた。そのことがフェルトは残念でならないけれど、その一方で酷く安心もしているのだった。
吸い上げるたびに水は甘さを増すようで、それが何となく苦しく思えたフェルトは一転して随分と時間をかけて飲み干すことにする。


「リターナーさんは、やさしいひとでした」
ミレイナが呟いた。フェルトに向かって言ったのではなかったのかもしれなかった。早々にフェルトを休ませることを諦めたのかもしれなかった。ただ、誰もが口を噤む中で、十四歳の少女はまだ見たことのない場所をそっと睨んで、勇気と無知を混ぜ合わせた言葉を吐くのだった。
「だから、ミレイナはすごくさみしいです」
フェルトはミレイナの方を見なかったし、キーボードを叩いては壊されてしまったシステムを作り直した。ミレイナもきっと、フェルトの方を見ていないに違いなかった。彼女はこれから、この船に乗る限りいつかは見なければならない世界をじっと待っている。
このシステムを壊した張本人について、フェルトは少し考えた。どの感情を持てば良いのか分からなかった。頭に浮かぶのは、彼女が欠けたことによる仕事量のことばかりで、四年前に激しく心臓を掴んだあの激情には程遠かった。要するに、今はそれどころではないのだと思う。悲しむのも、怒るのも、泣くのも、時間があるときのために残すのだ。
「そうだね」
相槌を打つと、言葉は壁に跳ね返った。稼動音に混じって、誰かが走っていた。ミレイナが可愛らしい溜息をついた。ストローから丸い粒がふわりとこぼれた。


戦友の戦死した夜、静かなる船が、宇宙に潜り込んでいく。







展開に置いてけぼりにされない妄想そのいち。二人ともそれどころじゃなさそうだけど。
あの四ヶ月間にアニューとフェルトとミレイナが一体どんなガールズトークをしたのか凄く気になります。ほんとはここにマリーが加わってほしかった……!いや加わるのかな?
フェルトどうして沙慈のことは沙慈って呼んでたのにアニューのことはリターナーさんだったんだろう……。どんな距離だったんだろう……。
09/02/24