幸運の星 朱い名残も消えた夕空の淡い色が照明の落とされたのっぺらぼうの床を窓からそっと照らしているのを見て、カティはしみじみと溜息をついた。拭いようもなく自分の匂いが染みついたこの部屋ともこれきりだと思うと強く立てた筈の決心が切なく軋んで、しかしカティはそれを小さな痛みとして別離させて熱さも冷たさも感じられない身体のどこかに隠してしまう。大抵、そういう場所は喉の奥を過ぎれば簡単に見つかることを、カティはよく知っているのである。 最低限にも満たない荷物がきれいにまとめられたボストンバックを足許に置いて、カティは窓辺に寄った。面白みもなければ代わり映えもしない景色で、思えばゆっくりと眺めたこともなかった。雲の陰が暗く落ちる空には遥かそそり立つ軌道エレベータの数知れない小さな照明がちかちかと閃いて、何となく平和を享受する街を彩っている。カーテンは開けたままにしておこう、とカティは思う。出来うる限りで空っぽにしてしまったこの部屋で、景色まで奪うのは色がなさ過ぎる。 よしと一声気合を入れ、カティは眼鏡を押し上げて瞼を閉じた。そうして名残惜しんでしまう可能性のあるものを視界に含まないように踵を返して、もはや揺るぎようのない決心を胸に宿して、少しずつ玄関へ向かう。靴裏を介して伝わる部屋の身じろぎを一つ一つ覚えるように踏みしめるたび、手放してしまう諸々がくるぶしの辺りで弾けて崩れていったけれど、カティの二本のしっかりとした足は地味で無難なジーンズにしっかりと包まれていたから、そういったものの挙げる断末魔の囁きは一つも耳に残らなかった。或いは、全てをここで払い落とすつもりであるのかもしれなかった。 そうして、身軽な彼女が玄関のノブの金属の堅さを手の平でやんわりと包み込んだときに残っていたのは、着の身着のままの服と味気ないボストンバック一つと、それから彼女がずっと面倒を見てやっていた部下のことだった。歩みだけでは振るい落とせる筈もなかった。この部屋の中に彼を招いたことは一度もなかったのだから。 あまりに思慮の欠ける彼の世話を焼くのは手のかかる仕事だった。世界が忙しなく変動を起こし続けているというのに、あの男は呑気にも花束を持ってこの玄関口に現れた挙句、軍人にあるまじきこと――戦争には興味ないと断言したのだった。そんな男が、今からカティが捨てようとしている組織に、忠告をまるっと無視して入隊してきた。曰く、カティを守るため、と。 黙って出て行くのは無責任が過ぎる気もしたが、今から失踪するというのに何かを残すわけにもいかず、よしんば残したとして彼がどうするにしろ自分の妨害とならないことをしないわけがなかった。そもそもあの男はこれから捨てる肩書き以外でカティと直接的なつながりがあるわけではない。ただ、勝手についてきて、勝手に自身を危険に晒しているだけだ。 何も義理はない。ないのだ。 カティは一度瞼と瞼を強く寄せ、眼鏡を押し上げた。そうして、喉をこくりと鳴らしてその熱いのか冷たいのか分からないものを奥の奥に押しやってしまうと、今度こそボストンバックをたった一つだけという装備でノブを回したのだった。 ドアを全て開けきる前に既にその男の顔は隙間から見えて、カティは固まった。幻か。考えすぎて見えているのか。第一まさに蒸発しようとしているところを見られるのはまずい。しかし、目の前の男はきちんと実体を以って冷静に動揺しているカティに詰め寄ってきて、驚くほど真剣な面持ちで低く唸るのだった。 「どこに行くんですか」 「どうしてお前がここに、」 「先に俺の質問に答えてください、大佐」 遮るようにどことなく強い口調で言って、パトリック・コーラサワーはさらに身を乗り出してきた。カティは部屋に押し戻される形になり、さらに焦る。空っぽの部屋を見られてしまったら、さすがに言い訳はできない。 コーラサワーは拗ねた子犬のようだとも、険しい男のそれだともとれる顔つきで、遠慮なく入ってくる。もう塵一つない玄関は見られてしまった。覚悟を決めねばならないことが、カティは今更哀しくて仕方なかった。自分が消えるとなれば、一番取り乱すに違いないからこそ遠ざけていたのに。この男はいつも予想外のことばかりする。自分の言うことは何でも聞くと大口を開けてのたまうくせに、いつだってカティの思う通りに動いたことなどないのだ。 「どこに行くおつもりですか。身の回りのものを全部片付けて」 「……プライベートだ。今から買い物に行く」 「俺もついていきます」 平然と言ってのけて、コーラサワーは足許に置いていたらしい荷物を背負った。男物の巨大なバックパックにははちきれんばかりにものが詰め込まれ、しまりきらないファスナーの隙間からはたたまれていない洋服の端が覗き、何を考えるまでもなく彼がどこか遠くへ出掛けるためにそれを急いで用意したのだというのが見てとれた。 「アロウズに行ってからの大佐は変でした。起動エレベータが崩れた後はもっと変でした」 「コーラサワー、」 「大佐、俺は大佐についていきます。だから連れて行ってください!」 そう言ってカティの手を包むコーラサワーの手の平は、語調とは逆に柔らかな力がこめられていて、だからカティは振り払えないでいた。知り合った頃ならばこんな接触は許さなかった筈だというのに、いつの間にか肩書き以上の間合いを詰められている。いっそのこと強く掴まれたのなら突っぱねられたのに、この男はどこまで踏み込んでくるつもりなのだろうか。 彼とて自分の真意は分かっているに違いなく、しかしその実それが孕んでいる危険性には一つも気付けていない。喉の奥に放り込んだ筈のものが身体のどこかでずきりと呻いた。あまりにも彼は真っ直ぐ自分を見つめている。 「……お前を連れて行くわけにはいかない」 目を逸らして呟くと、握ったままのカティの手にコーラサワーのもう片方の手がそっと添えられた。思わず逸らした視線をちらと戻すと、それまで見た中でも群を抜いて情けない顔がそれでもカティを真っ直ぐ強く見つめていて、ぎょっとする。駄目だ。その顔は。 「どうしても、連れて行ってくれないんですか……?」 何度この顔に引き摺られただろう。性質の悪いことにコーラサワーはいつだって意図して表情を作っているわけではないのであった。カティはうろたえていることを必死に隠しながら、歯軋りの隙間から言葉を吐く。 「……危険だから、」 「危険なら、尚更大佐を一人にはできません! 連れて行ってください!」 握られた手をぎゅっと子供のように握り、コーラサワーが叫ぶ。勢いでボストンバックを取り落としてしまう。どさりと踝の辺りで鳴る音が、先ほど振るい落としたものを彷彿とさせてカティは息を呑む。眉間で絡まる前髪の一本一本を辿れるほど、コーラサワーの顔が迫っていた。潤んだ瞳に映り込む自身の顔のあまりの情けなさに、カティは気付けない。 「連れて行ってくれなくても、勝手について行きます! だから、大佐――」 不死身の俺に、守らせてください。 最後だけ振り絞るように囁いて、コーラサワーは突然俯いた。荒れ放題の旋毛は覗けるのに、握られた力は緩もうとしない。振り払えない力ではない。けれど、もはや今のカティに、手の甲からじわりと滲む肌の暖かさを捨てることはできなかった。慣れ親しんだ赤毛が少し眩しい。 やはり、この男は思い通りにいかない。 男の両手に抱え込むように包まれた右手をカティは引き抜き、瞬時に片方の手首を掴み直した。驚いてコーラサワーが顔を上げる前に落としたボストンバックを拾い上げ、カティは歩き出す。 「た、大佐っ」 「……行くぞ。しなければならないことが山のようにある」 呆れと怒りをこめて呟くと、掴んだ手首から華やいだ気配が迸るのを感じた。なんと分かり易くて、理解し難い男なのだろう。この男に出会ったのが運のつきかもしれない。否、パトリック・コーラサワーの異名は何だった。これはラッキーチャンスになり得る芽と考えられなくもない。 「大佐ぁ! 大好きです!」 早速調子に乗ったコーラサワーが大声を出すものだから、思わず振り返って怒鳴った。 「馬鹿者! 静かにしろ!」 そうして怒鳴りながら、けれどカティは部屋を出る前に疼いていた決心が俄かに血の気を帯びるのを感じていた。どくりと拍動するたびに熱を生み、深い呼吸を始めている。根拠のない安心感は決して油断ではないことをどこかで悟りつつ、世界一幸運な情けない男の手を引いて革命に歩くカティの頭上には一番星が鋭く光り始めていた。 |