瞳をみせて お墓をつくりたいの、とルイスが言ったので、沙慈はその唐突さと突拍子のなさと理性的な疑問と当たり前の幸せを含めて、誰の、と聞き返した。 枕元に添えられた花瓶から慎ましやかに咲く花々が、病室の空気を和らげている。ルイスの上司だったという人から届いたものだった。ルイス自身からまだ詳しくは紡がれない四年の只中を垣間見て、沙慈は寂しさと嬉しさを交互に噛み締めてばかりである。 言葉を発したまま布団の前で緩く組んだ指を見つめていたルイスが、少し困った顔した。こうしていると時が経ったのは嘘のようにルイスは幼くなるけれど、そうして言葉を探すルイスをやはり沙慈はよく知らないのだった。これから教えてくれるのだろうかという確かな期待を混ぜて、沙慈は静かにルイスの言葉を待つ。別の世界で呼吸をしていた四年間、彼ら二人の前から去った人達は数えられないし、そうした人々にはもう既にきちんとした還る場所が用意されている筈だったから、ルイスが今更誰の遺体を収めようとしているのか沙慈にはおよそ見当もつかなかった。 「たぶん、沙慈のしらないひと」 やがてルイスはそう言って微笑み、目を伏せて決して沙慈には覗かせなかった。当然のようにまだ日は浅い。とりあえず彼女を助けたくて無我夢中に抱き締めて転がり込んできたけれど、こうしてゆっくりと呼吸を整えられる今からこそが、彼女との闘いの始まりかもしれなかった。 故人の名を、ルイスがそっと呟く。 「ネーナ・トリニティ」 呆気ないほど細い指と指の間が、きゅうと縮まる。 「……ママとパパの仇、だった、」 わたしがころしてしまった、おんなのこ。 「ネーナ・トリニティは、家族の仇がいると言っていたの。自分ばかり、不幸な振りをするな、って」 つないだ左手は本当の手ではないけれど、それでも暖かで確かに彼女のものだった。指の腹に当たる指輪の冷たさがこそばゆい。退院したばかりで体調も不安定ではあるけれど、ルイスは自分の足で歩けたし、ところどころで休みながらも顔色も表情も柔らかだった。 「家族の、仇、」 反芻すると、今日のルイスは眼の色を隠さずに沙慈を見上げて頷く。 「そう、仇」 その言葉から沙慈が連想するのは白髪の少女だった。ルイスの話をしてくれた、穏やかで強い少女。自身と、自身の大切にする青年の幸せを柔らかに説いた同じ唇で、人が変わったように、かたき、の三文字を何度も繰り返した。宇宙の闇に溺れて搾り出された慟哭を、沙慈はオーライザーのコクピットで、通信を通して、それから刹那の光を通して、何度も何度も聞いたのだ。 大切な家族を殺されたと言う。 (そういえば、僕も家族を殺された) 「ネーナ・トリニティの名前は、後で聞いたの。不明だらけの、簡単な経歴も」 ルイスの歩調が速まった。握られた手は依然緩やかなままだ。短くなった毛先がうなじで微風に踊る。ルイスは長いスカートがとてもよく似合った。四年分老いたルイスは弾けるような若さをもう持とうとはしていないようで、沙慈にはそれが少し残念だけれど、不思議と喪失を惜しく思う気持ちはなかった。失くし過ぎたからかもしれない。 「ガンダムに乗っていたけど、沙慈がいたソレスタル・ビーイングの人じゃないんだって」 「そうみたいだね」 無知であった時分、閉じ込められたときに見知った記憶が蘇る。データベースの上を無機質に流れるガンダムスローネの説明。数ヶ月前の出来事は驚くほど遠く、沙慈は静かに戸惑いを覚える。 「それ以外はよく分からなかったけれど、ネーナ・トリニティは四年前確かに私の親戚を襲撃したし、それからすぐに同じくガンダムに乗っていた兄を二人亡くしたの」 落とした小石が沈んでいくように、ルイスの足がすうと止まる。揃えられた白い靴の隣に回りこみ、沙慈も倣って見下ろす。吹き降ろす風は相変わらず優しい様相を醸している。水滴に一筋絵の具を垂らしたような空。ふわりと湧き上がる、幽かに生臭い土の匂い。水気を帯びて項垂れる雑草の頭。世界は何となく優しくて、沙慈とルイスの目の前の真新しい小さな墓石を曖昧に包み込んでいる。 「機体の破片は少し回収できたから、代わりに入れてもらったの」 沙慈の右手の隙間からするりと左手を抜いたルイスは、墓石の前でしゃがんで片手に持っていた小振りの花束をそっと添えた。学生時代のルイスが好みそうな鮮やかな原色の花束で、水で薄めたような景色の中では酷く際立って場違いだった。何を思ってルイスがその花束を頼んだのか、沙慈はやはり知らないのである。 「ルイスは、その、ネーナ・トリニティとどれくらい話をしたの?」 断片の少しでも見つけられればと問いを投げかけると、ルイスはまた困った顔をして黙り込んだ。花の甘さと青臭さを混ぜた匂いが通り抜ける。甘すぎて目が霞む。ルイスの小さな背中は迷っていた。 「……ほんの、ちょっと。ほとんど、なにも」 答えたくないのかもしれないと沙慈が思い始めた頃に、ルイスが僅かに顔を歪めてこぼすように言った。そうして思わず身を引くほどの勢いで立ち上がったルイスは沙慈に向き直り、そっと寄りかかってくる。ルイスの重みは嬉しさと苦しさを伴って沙慈の胸を苛んだ。きりきりと心臓と骨が擦れ合う。ルイスの温い吐息が確かに当たる。 「でもね、わかるの。ネーナはわたしと一緒だった」 細く囁くルイスは瞳を見せてくれない。促されるように肩を抱こうとして、だから、沙慈は躊躇した。このまま甘やかして、そしたら、いつ彼女は瞳を合わせてくれるのだろう。時間が約束されているわけではないことくらい、いい加減憶えた筈だった。見下ろした先の、ルイスの金髪が唯一太陽の強い色を映している。 「沙慈、どうしよう、」 吐息のように漏らされた声は、何となく知っていた。 ――わたし、まちがえちゃったの。 「自己満足だもの。知ってる」 足許にあるらしい空の棺。血族の名を連ねることのない、たった一人のための墓石。航空機が薄く雲を引き伸ばしながら横切る。雲が流れて瞬きのように刹那翳る。ちち、と見えない鳥が歌っている。祈りを捧げるには些か長い間、二人は酷く擬似的な景色に融けていた。沙慈は結局両腕を上げることができないでいたし、ルイスも瞳を晒すことができないでいた。まるで時が止められていたようだったけれど、沙慈の左手首に巻かれた腕時計は知らんふりをして着々と針を進めている。 「あの子の言う通り。わたしはとても傲慢で、思い上がってた。今も、そう」 かけられる言葉を探すけれど、沙慈は半ば恐怖にも似た感情でルイスの肩に触れる腕を躊躇っていた。ルイスの薄い肩は果たして沙慈の手の平を求めているのか、依然、ルイスは沙慈に寄りかかったまま動かない。ただ、温い呼吸だけが規則的に繰り返されている。 「でも、これしか思いつかないの。沙慈は、どう思う?」 初めて、ルイスが問いを投げた。沙慈は精一杯答えてやろうとして、その先にいるのが彼女のつむじであることに気付く。折角また会えたのに。 (瞳を見せて、ルイス、) 弛緩していた腕が震える。あれほど躊躇っていた距離は呆気なく、沙慈は手の平でルイスの肩を包むとそっと自分から離した。胸に当たる吐息の震えで、ルイスが驚いたらしいということが分かった。思わず顔を上げるルイスの頭を素早く両手で固定した。少しの間焦がれていた瞳は青い虹彩を内包して、健康的に潤んでいた。 「間違っているとか、そうじゃないとかはわからないけど、」 ルイスが息を止めている。白い顔に浮かぶのは、小さな驚きと隠しきれない怯えと、それを丸く囲む安心、それから、多分、拭ってはいけない罪悪感。瞳をしっかりと覗きこんで、沙慈は平静を努めて応える。 「ルイスがそう思ったのなら、そうするしかないんだと思う」 青い虹彩がひとうねりした。瞬きを跨いで、角膜に移る沙慈の姿が急速に像を成していく。目尻が和らいだ。視線を下げると、唇が緩やかに弧を描いていた。沙慈はルイスの笑顔はどんなものだって好きだった。たとえ、それが自分の知らないものであっても、好きなのだ。 「ありがとう、沙慈」 ルイスの細い腕が沙慈の両手に絡まった。沙慈はゆっくりと金髪の間から指を抜く。ルイスを見ると、今度は寸分違わず瞳にぶつかった。少し子供じみた色を滲ませた瞳の言わんとしていることを沙慈は正確に汲み取り、改めてルイスを抱き寄せた。 「不謹慎だね。ネーナに怒られるかな」 腕の中でルイスが笑いを含みながら言う。 「怒られるかもしれないね。でも、」 ルイスの身体はやはり小さかったけれど、吹けば飛ぶような希薄さは見当たらない。背中に回された本物の手もそうじゃない手も、変わらずにいとしい。考えることも見つめることもやめてはいけないけれど、だから、沙慈はそっと呟くのだった。 「僕らだって、幸せになりたいんだ」 |