上品に挽かれたコーヒーの香りが漂っている。


優しい朝


匂いに惹かれた右手指が愛用のカップを探した。取っ手に人差し指と中指が丁度収まる大きさの、イブが選んでくれた水色のカップだ。使うたびにイブが丁寧に洗ってくれているものの、使いすぎて今では底に軽い茶渋がついてしまっている。その年季の入り方もどこか気に入りである。まあ、年季と言っても、あのカップを使い始めてからまだ半年も経っていないのだが。
イブが優しい角度でコーヒーを注いでくれる、あのカップはどこにあるのか。探る右手が少し重い。指先はさらさらの生地ばかり擦る。この布は、夫婦で揃いにしたタータンチェックのランチョンマットか。
否、シーツだ。
そこでラックの意識は漸く覚醒した。起き抜けの視界に睫毛がかかり、薄暗い寝室の見通しはさらに悪い。カップを掴み損ねた右手の甲で乱暴に瞼を擦り、左手をシーツについて無理矢理起き上がると、僅かな重心の変わり目にダブルベッドのスプリングが軋んだ。手をついた場所に昨夜確かにいた筈の新妻は、シーツに体温すら残さない程自分より早く起きたらしい。
ダイニングに続く扉は薄く開いており、光の筋を寝室に落としていた。その隙間からコーヒーの香りが漂ってきているようだ。大きく伸びて深呼吸と共に匂いを身体に取り込む。閉じた瞼の裏に、エプロンをきちんと着こなした小柄な妻の調理に専念する姿が浮かぶ。まったくもって、敵わないほど生真面目だ。
ぎしぎしと軋ませてラックはベッドから降りる。身支度などとうの昔に整えているに違いない妻に対して申し訳ない気がするので、手早く脇に積まれた着替えを手に取る。張りのあるアイロンがけのされたシャツが、店先で並ぶような畳み方で置かれていた。あの箱入り娘がどこでこんな技を習得したのか常々疑問に思う。否、箱入り娘だからこそ花嫁修業は人一倍なのだろうか。
(そんなところの娘さんが、まさかお嫁に来るとは、ね)
兎にも角にもラックは寝巻きをもそもそと脱ぎ、崩すのが惜しいそのワイシャツを開いて腕を通した。イブのアイロンのかけ方は少し力みが入っているようで、素肌に当たる生地は心持ち固い。あの小さな身体がどれだけ踏ん張ってアイロンをかけているかを想像すると、それはそれで結構微笑ましかった。
着々と身支度をしている間に、扉の隙間から流れてくる匂いはどんどん香ばしいものに変わっていく。時折何かを焼く音や食器のぶつかる音もする。毎朝のことだが、ラックは時々その様子をじっくり見てみたいと思う。思うのだが、なかなか早起きができないので、実行に至ったことはまだない。
髪を整えている最中、扉の軋む音がした。振り返る前に、柔らかな声音が耳朶を打つ。
「あら、ラックさん、おはようございます」
「おはようございます、イブさん」
うふふ、と照れたように笑って、イブが半歩部屋に入る。まだ締めずに首にだらりとぶら下がるネクタイの存在を疎ましく思いながら、ラックはイブに向き直った。妻の姿は先ほど瞼の裏に思い浮かべた通り、落ち着いたエプロンをきちんと着こなした、いつものそのままであった。
「あと五分ほどで、朝食の準備が整いますよ。先にコーヒーが入っているのでどうぞ」
言って、イブははにかむように笑む。その際に目尻に薄く浮かぶ笑いじわがラックはなかなか好きである。和らいだ顔を見せてくれるようになってから気付いた、イブの笑顔の持ち味だからだ。
「ああ、ありがとうございます」
答えつつ、ラックは急いで髪を整える。ぱたぱたと足のサイズに合わないスリッパの音を残してイブはまたキッチンに戻った。扉が大きく開いた分朝食の香りが雪崩れて部屋に入る。軽い鼻歌が聴こえた。ラックも耳に覚えのあるメロディであったが、如何せん曲の名前が思い出せない。
ネクタイを急いで締め、ラックは大股で部屋を出た。一先ずイブの淹れる優しいコーヒーできちんと目を覚まそうと思った。


「じゃあ、気をつけて……って言っても、死なないんでした」
「そうでしたねえ」
「でも……気をつけて」
玄関口で小さく囁き、イブは着々とラックのネクタイを締め直す。
ラックが慌てて締めたネクタイはイブから見れば不恰好だったようで、こうして出掛けに甲斐甲斐しく世話をされているのであった。淀みない手付きには今更ではあるものの驚いてしまう。人のネクタイなど締めたことがないので分からないが、それなりに難しいことなのではないか。ましてやネクタイなど結ぶことのないイブだ。出来すぎる妻に、ラックは時折申し訳なくなる。
気が済むまで長さの調節を行い、軽くスーツの襟元を払って、イブがにこりと笑った。終わりの合図と受け取り、背の低いイブのために屈んでいたラックが身を起こす。近かったイブの生え際が遠のく。
「今日は少し遅くなるかもしれません」
結婚してから何度目になるか分からない。イブをがっかりさせるだろうこの科白を、彼女は一度も渋面で受け取ったことがない。これを言うことで心に芽生える罪悪感は、物分かりの良い妻のおかげでより一層色濃くなる。
ラックの心中など知ってか知らずか、イブがてきぱきと聞く。
「お夕飯はどうしますか? 残しておくか、それとも外食ですか?」
「できれば、残しておいてほしいかな」
長引く仕事でどんなに疲れて帰っても、イブの手料理があるだけで本当に救われた気分になるのだから不思議だ。多少冷めていても構わない。イブの料理が食べたい。
「分かりました。お仕事頑張って下さい」
頷いて笑むイブの顔をしみじみと見下ろして、ラックは少し微妙な気分に陥った。
正直、イブがその「お仕事」についてどれほど把握しているかは謎である。仕事の話はあまり家ではしないし、イブはその昔裏社会の一部たるガンドール・ファミリーを「マフィア屋さん」と言ってのけたという逸話を持つ人物だ。自分の所業を漏らさず開示し、それを承知の上でイブは自分との婚約に臨んだが、彼女は本当にここにいるべき人なのか、時折罪悪感のまとわりつく疑問がラックの心中に浮上する。
「ラックさん?」
少しぼうっとしていたのだろう。イブが首を傾け、伸び上がるようにしてラックを覗き込んだ。あどけない顔が訝る表情を作る。およそ、裏社会に身を沈める自分には似合わない、残酷に感じられるほど無垢な顔を、イブは呼吸をするように作る。
それでも、自分達は結婚したのだ。
「イブ、」
伸び上がるイブに合わせるようにもう一度屈み、ラックは疑問の形を作るその唇にそっと口付けた。毎朝のようにキスをする習慣などないが、たまに、ふと思いついたときにしてしまう。
ほんの、一呼吸の間だけ触れて、ラックは再び身を起こした。イブの小さな唇は未だ疑問の形のままであった。訝る目は、驚く目に変わっていた。軽く頬に手を触れさせ、ラックはできるだけ優しく見えるように微笑んだ。
「では、いってきます」
「……いってらっしゃい」
ネクタイを締めるときのはきはきとした勢いはどこに行ったのか。呟くような小さな声を聞きながらラックは踵を返し、我が家の扉を押し開けた。


「……もう、いきなりなんだから」
閉じた扉を困った顔で睨みつけて小柄な良妻が呟いたのを、幸福な夫は知らない。







芋さんに捧げましたラクイブです!夏コミ前日にびゃーっと書いてびゃーっと印刷しました(笑
芋さん家のラクイブ夫婦がもう萌え過ぎて見るたびに血溜まりを作っていたのでその勢いで書きました。
相当趣味が入ってますごめんなさいダブルベッドとかそこら辺。
08/08/16