※ラックとイブがナチュラルに結婚しています。 思いがけない告白 手洗いから戻って直ぐカウンターのその席を確かめたけれど、既に時遅く、栗色の髪の覆う小さな背中は弛緩して崩れていた。元凶は探すまでもなくイブの右隣で程よく筋肉のついた右腕を枕にして酒瓶を抱え込んでいる。油断はラックの過失だけれど、そもそもラックが油断してはいけない状態にならざるを得ないのは、このろくでもない連中のせいではないか。即座に這い上がる行き場のない怒りを押し込めきれず、ラックはカウンター席まで大股で走り寄った。 「マリアさん! 何を飲ませたんですか!」 身体中から葡萄酒を漂わせて酒瓶を抱き締めるマリアの肩を一先ず揺らすと、伏せていた顔がラックを振り向いて口許を歪ませた。笑っている、らしい。艶かしい口紅も台無しの不気味な笑みである。 「……んううぅう? なぁにー、きこえなかったぁ、もっかいいってよアミーゴォ」 口を開けば取り囲む空気までも葡萄酒の気配に包まれて、ラックは辟易とする。葡萄酒の香りも味も好ましいけれど、酔っ払いから沸き起こるそれまで好む趣味はない。 こうなっては仕方がないので、マリアは見なかったことにしてイブの肩を突付く。僅かに触れた肩先も熱く、相当酔いが回っているようだった。ん、と愚図るように何か呟いて、イブが顔を上げる。耳まで赤らめた皮膚と据わらない目線にどうしても溜息しか出てこない。出かけるときは丁寧に梳かれていた髪も今やばらばらで、とりあえず肩口で乱れる毛先をまとめるために額から掻きあげてやると、指先に汗の雫が滴った。 飲めないわけではないけれど、飲ませない方が良いことくらい心得ていた。新年会という名のただのどんちゃん騒ぎへの出席だって本当は反対だった。放っておけばそれこそマリアのような連中がイブに殺到して挨拶代わりに酒を勧め、勧められれば毒とも知らずに受け取ってしまうのがイブである。 ――ボスの妻ですから。 その一点張りだった。とうとう勢いに負けてあまり飲まないことを約束させて連れてきてしまったことが、悔やまれてならない。久しぶりに兄嫁達と話すこともあるのだろうと許してしまう自分は、よく言われるようにつくづく甘いのだろう。 「ラック、さん?」 潤んだ瞳が薄暗い照明の光の粒を映して瞬き、ゆっくりと微笑んだ。兎に角彼女を奥で休ませようと手を伸ばした矢先のことに生唾を飲む。真っ直ぐに垂れた髪がまたほどけて頬にかかり、睫毛は湿って動きを緩ませる。今更のように、当然のように、ラックはイブの笑顔に弱いのである。 「……イブさん、奥で休ませてもらいましょう」 押し殺すように低く囁いて、イブの身体を支えながら椅子から降ろす。途端に腕に柔らかな重力がかかり、慌てて空いている手も回す。触れているところもその皮膚の周りも絶え間なく熱が巡って酷く熱い。歩けますか、と刺激を与えないように小声で聞くと、イブは話を聞いていなかったように「はい、」と爽やかに答えて膝を崩し、何となくそうなる予感がしていたラックは周到に彼女を掬い上げた。 そうして、後でマリアには説教を用意することを決めながら、ラックはイブを半ば抱き抱えるようにして歩き出したのだった。 「ラックさんは、ずるい、」 奥の部屋のソファに横たえさせて、楽になるように正装の首元のリボンを緩めさせると、それまでうっとりと目を閉じていたイブが呟いた。振り返ると大きな瞼がきりっと開いて、けれど上手くものを映せていないようである。 「何がですか」 そうだ。こちらにも多少の説教は必要だ。勧められても断れないようではこちらだって安心できない。大丈夫だと言い張ったのはイブだ。側のソファに腰掛けて何と切り出そうか考えていると、イブが再び妙にはっきりとした口調で喋った。 「わたしだって、さみしいんです」 思わず心臓が少し跳ねて、イブを見遣る。ソファに埋まるように小さな身体は沈んでいて、瞳はしっかりと開かれたまま天井を睨んでいた。言葉を出すべきかどうか逡巡している間にイブはどんどんと言葉を続けていく。 「ラックさんは、毎日皆さんと一緒にいるのに、わたしはおうちに一人ぼっちです。ときどきベンヤミンさんとか来てくれるけど、そのほかは、ずーっとラックさんを待ってるだけで、」 「い、イブさ、」 「でもラックさんいつも帰ってくるの遅いしあんまり長くお話できないし、わたしだって、わ、わたしだって、」 こんなに文句を並べるイブを見るのは初めてだ。育ちの良さはいつでもイブに付きまとい、ラックの仕事について言及することもなければ目立った自己主張もない。朝は必ずラックよりも早く起きて様々な仕度を済ませ、夜は帰る時間の定まらないラックのために夕飯を温め直す。 ラックの記憶に新しいのは、どれも、心苦しくさえ思えるほどの優しい笑顔である。 「わたしだって、さみしいんです!」 イブが叫ぶように言って突然ぼろぼろと涙をこぼし始めたので、ラックは慌てて腰を浮かせた。これも酒のせいなのだろうか。たどたどしくイブがアイロンをかけたハンカチを引っ張り出して赤く腫れ始めた目元を拭い、どうすることもできずに投げ出された手を握ってみる。押さえても押さえてもみるみるうちにハンカチは重く湿ってしまう。しゃくり上げる声はラックをじりじりと追い詰めていった。 「イブさん、泣かないでください」 困り果ててこぼすように言ってしまう。自分にこんなことが言えた義理ではないのは承知だけれど、なかなか握り返してくれない手を離すのも憚られて、本当にどうして良いのか分からなくなる。こうした不器用で鈍感なところがイブを苦しめているのだろう、とぼんやり自覚する。 「じゃあ、」 いつの間にか瞼を閉じていたイブが、うわ言のように囁いた。 「ここにいて、」 手の中に収まる小さな指が探るように手の平を引っ掻き、見つけてぎゅうと指を握られた。今度こそ本当に心臓が大きく跳ねて耳の側の血管がどくりどくりと騒ぎ立て、まだ赤らんだままの寝顔を食い入るように見つめると、イブは薄っすらと瞼を開けてしっかりとラックを見つめ返した。薄らぐ瞳の中で自分が酷く焦っている姿が揺れて、けれど、イブはそのまままた瞼を閉じて寝入ってしまう。 すうすうと変わらない寝息を立てて眠るイブを前にして、ラックは情けない気分と葡萄酒の香りに包まれてばかりだった。 (つまり、今のが、) (本音、ということなのだろうか) 心を入れ替えざるを得ない。 |