でも、それでいいじゃないか 肩の上をよく絞られた濡れ雑巾が滑ると、きゅうという音が漏れて一瞬湿り気を帯び、砂が融け落ちるように瞬く間に乾いていく。覚えのある強さ加減の手つきで規則的に擦られながら、胡坐をかいて素直に拭かれているアルフォンスはしかし、彼女の指の温みも柔らかさも一つも分からないでいる。それに対して戸惑いを覚えなくなった自分に戸惑ってもいる。 「この白いの、鳥の糞かなあ」 雑巾が背後に回っていき、ウィンリィは呟きながら一箇所を特に擦っている。律儀に堅い鎧には彼女の温度を察する神経は通らないけれど、アルフォンスには彼女の指の動きの一つ一つが分かるし、身体のどの辺りを温い雑巾が通り過ぎているかも確かに感じられるのだ。それでいいじゃないか、と囁き返す動作は繰り返しすぎてしまってだんだん色を失っている。(でも、それでいいじゃないか) 「ここへこんでる。もう、あんた何やったの?」 腰の上の辺りをまさぐられる。感触がお気に召したようで、ウィンリィは執拗に磨き始める。その小さなへこみがいつついたものなのか、誰によってつけられたのか、どうしてついたのか、そういったことをアルフォンスは当然のように覚えていないので、素直に、わからないなあ、いつだろう、と自分のものとは決定的に違ってしまっている声で呟くと、何それ、とウィンリィは笑う。この身体になってから一見変わりのないウィンリィの笑い方も確かに決定的に違って聞こえるのは、鎧のせいなのか、彼女自身の変化なのか、アルフォンスが判断するのに必要な材料は見事に欠けている。 「もう! 少しは自分を大切にしなさいよほんとにあんた達は!」 きんきんと喚くウィンリィにあてつけのようにがしがしと強く擦られる。バランスを崩してしまいそうになり、思わず、いたいいたい、と言ってみると、背後のウィンリィが子供のような笑い方をしたのでアルフォンスはとりあえずのところ安堵する。実のところ、痛覚はないに等しいのだった。 (でも、それでいいじゃないか) 「頭、とって」 傍らのばけつの水面に雑巾を落として、ウィンリィがさらりと言い放った。どうして、と聞く前に彼女の普段の働きの垣間見える手が力強く雑巾を絞りつつ、青い視線をこちらに渡らせて言う。 「中、一回も拭いてないでしょ。拭いたげる」 言うや否やしなやかな腕が伸び上がって、顔の両脇を掴む。がさつなように見える動作は、けれど確かに命のあるものを扱う手つきだ。アルフォンスはいつだって怯えに忠実に、ウィンリィの一挙手一投足を見据えている。 「い、いいよ」 反射で断っている間に兜を外された。丁寧に抱えられた自分の頭を見下ろすのは何とも言えずむず痒く、同時に足許の覚束なさに暗い波が押し寄せてくる。リゼンプールに一時的に戻ると――そしてウィンリィに会うと――自然と引く筈の潮は、今にもアルフォンスを飲み込もうと満ちる。自身の所在を認められなくなるのはそこに頭の先まで浸ってしまった証拠である。ウィンリィの腕の中の見慣れた鎧の自分は、何だか穏やかで眠そうな顔をしている。 「拭いてどうにかなるわけじゃないし、」 早く顔を戻して欲しい一心でアルフォンスは言うが、ウィンリィは既に兜の内側に雑巾を滑らせていた。探るように手を動かしてから雑巾の表面を確かめては、「汚い!」と叫び、再び拭き始める。こうなるとアルフォンスはどうしようもなくなるので、黙って自分の頭部が磨かれるのを眺めるだけだった。 魂の所在と形状について、思考の波が押し寄せてくる。結局兄は練成の方法をアルフォンスには話していない。鎧の形に忠実に魂が定着しているというのならば、今、アルフォンスの目線はウィンリィの健康的な腕の中の筈だった。けれど、それでは、自分は一体どこから彼女と自分の頭を見つめているというのだろう。 兄の血の印が疼く。決定的な心臓がそこであるのを、鎧の身体として再び蘇ったそのときからアルフォンスは教えられるまでもなく知っていた。自分も分からなかった癖に、そこに滴る真新しい鉄の匂いを反射で庇った。ここに自分の魂が集約されているのか。では、鎧の腕を、脚を動かしているのは何なのだ。そも、自分は生きているのか。 「はい屈んでー」 いつの間にか兜を拭き終えていたウィンリィがアルフォンスの肩に手をかける。言われるままに身体を傾かせると、突然ウィンリィはアルフォンスの胡坐の膝の上に乗り上げてきた。何となくウィンリィが何をしようとしているのかだんだんと察することが上手くなってきたアルフォンスは、抵抗は早々に諦めて彼女に巨大な鎧を任せた。予想通り彼女の雑巾を持った手が身体の内側に伸びてくる。相変わらず丁寧とは言えないけれど、的確な手付きはアルフォンスを酷く安心させる。 「うわっこっちも汚い」 ウィンリィの手に力がこもる。内側を擦られるのもそう変わりはしない。彼女の手の動きも雑巾の感触も音も、確かにアルフォンスには分かった。(それでいいじゃないか)同様に、温みも柔さもアルフォンスはとうとう感じることができなかった。(……それでいいじゃないか) 手の届く範囲を必死に磨くウィンリィの腕が、血印の近くを通るたびにざわざわとアルフォンスの胸は騒ぎ、振り払いたくなる衝動をゆるりと増幅させる。身体をなくしても、心臓の震えるときの言い知れぬ予感は魂が知っているようだ。事情を知っているのかそうでないのか分からないけれども、ウィンリィの握る雑巾は決してその場所だけは触れないように拭いている。 「ウィンリィ、」 黙っているのが嫌になって、呼びかけた。 「何?」 返事は鎧の内側で跳ね返る。脳の存在しない自分は何を言うかも考えておらず、沈黙を数秒弄んだ後に悩むこともなく呟いた。 「ありがとう」 ぱたり、と雑巾の動きが止まる。その隙にアルフォンスは彼女の皮膚の当たる場所を必死に探る。どうにか見つけて何もかもをそこになげうち、読み取れるものを片端から呑み込んでいく。血印が落ち着かない。ウィンリィの指先は僅かに温い筈だったのに。手を繋いだ記憶も、叩かれた記憶も、彼女にまつわる大体のことを自分は蔑ろにしてきてしまったのではないか。父の残した鎧は忠実に堅い。 「ねえ、アル、」 やがてゆっくりと雑巾を滑らせ始めたウィンリィが、そっと鎧の中に囁いた。 「この中、……アルの声が、よくきこえる」 ぺたり、と随分と柔らかいものが首の付け根の辺りに張り付く。滑らかな金髪が無造作に括られて華奢な肩口から流れている。ウィンリィの頬は確かに温かいことが察せられる。 「そう?」 考えてもみなかったことなので、どうにも返せなかった。 「うん」 噛み締めるように頷くウィンリィを見て、アルフォンスは唐突に、けれど順序通りに、失くしたものを懲りずに確かめてしまう。ウィンリィの腕は先ほどよりも随分と緩慢になっていた。目線の位置も定まっていないのに、アルフォンスにはどうしても彼女の顔が見えない。見たいのかどうかすらも分からないまま、アルフォンスは魂の感覚器を必死に研ぎ続ける。 ウィンリィの頬がまだくっついているのは分かる。 ウィンリィの体温を自分は既に忘れたようだった。 (でも、それでいいじゃないか) |