ロストヴァージン 桃井の顎は想像よりも小さく、当たり前だけれどすべすべしていた。閉じられた瞼のすき間から伸びる睫毛の陰がくっきりと浮き出て、まだ明るいからと部屋の電気を点けていない自室はただそれだけで知らない場所のようだ。緩く閉じられた唇と緊張に心なしか速まる冷たい鼻息が顎を捉えた黄瀬の左手にかかってこそばゆい。先ほど食べたクッキーのかけらが口の端に引っ掛かり、黄瀬に会う前に彼女が唇に引いたのだろう口紅か何かの色味が部分的にはがれている。それでも桃井の唇は赤い。 黄瀬が桃井を信じられなくなるときは、例えばこういう瞬間だった。桃井は相手が青峰であっても黄瀬であってもこともなげにゼロ距離に飛び込める身体と心の軽やかさを持っている。ぶつかってもその柔らかな肢体は弾力をもって受け入れることができるのだ。それを信頼ととるには、少なくとも黄瀬にとって、桃井はいささかだらしなく見えてしまうのだった。(誰もそんなこと言わないっスけど、)たまたま桃井と並んで帰ったある放課後の次の日、ファンを名乗る名前のない女たちが口々に桃井の振る舞いを詰っていたのを思い出す。 それとも、黄瀬に身体を傾けて穏やかな呼吸を繰り返している今目の前にいる桃井が実は内心の動揺を押し隠し、まるで慣れているように取り繕っているだとか。 (ある意味そそるかも) 中学時代、彼女の見事な体つきに目を走らせることがないわけではなかった。疾しい目を持つ小さな罪悪感は、友人と――多くは青峰だが――共有することで和らぎ、いつしかそういった興味を覚えることが嗜みとすら思えるようにすらなった。皆心の奥では誰でもいいからかわいい女の子とやりたいのだ。桃井の身軽さは翻れば下ネタの格好の餌だった。桃井の危ないスカートの裾から覗きそうな下着や、晒された太ももの稜線、胸元を押し上げる柔らかみを目で追うことに何かを感じるような純情さは、もはや黄瀬には一つも残されていないのだった。 けれど、今、黄瀬は初めてと言ってもいいほど、桃井の体温や身体に興奮を覚えることに強い罪悪感を抱いていた。それとも、罪悪感があるからこそ興奮するのだろうか。何も知らない(と願う)桃井は目を閉じている。 そのときのことについて、小さく焼きつく痛みの中で唯一てのひらを伝った一筋の血液が冷めて感じられたことを黄瀬は何となく覚えている。それとも冷たかったのは背筋だろうか。たったの一筋であろうと、今まで黄瀬の経験してきた擦り傷や打撲のどれひとつとっても到底出ないような量と濃さのそれが放つ鉄くささに焦ったのだ。 ばかになったように耳を押さえていない方の手でティッシュをつぎたし、震える奥歯を痛みごと噛み締めてこらえ、ひたすらそのときが過ぎ去るのを待った。喉の奥からせり上がる涙は意地で止めた。やっぱり高くても病院に行くなりピアッサーを使うなりすれば良かった。耳たぶを氷で冷やせばあまり痛くなかったかもしれないのに面倒で。わざわざ親にもらった身体に孔をあけなくても。後悔が後から後から胸を埋め尽くし、目の端にちらちらと映るティッシュに染みた血の鮮やかさが恐怖を煽る。このまま針を貫通させるなんて無理なのではないだろうか。中学生の心と身体の恐怖は重くのしかかり、全ての処置を終えて大量のティッシュや消毒綿、そして黄瀬の薄い皮膚と肉とを潜り抜けた不気味なピンをゴミ箱に突っこんだ後には、ベッドにぐったりと横たわるほかなかった。大人になるというのは何とも痛くて疲れるものだと深い溜め息と達成感を得たものだった。 だから、もしもしの挨拶もせずにいきなり『きーちゃん、ピアスってどうやってあけるの?』と気軽な電話を桃井が寄越してきたとき、明るすぎる声音と恐怖の初体験との対比がひどく黄瀬を逆撫でしたのだった。 「どうって、いろいろあるっスけど……桃っち、ピアスあけるんスか?」 桃井は勿論黄瀬と同い年で高校一年生だ。身を整えることに余念のない彼女が新しい身づくろいの方法としてピアスを思いつくのも何もおかしくない。桃井の(おぼろげな記憶の中ではたしか)小振りな耳たぶに控えめな粒のピアスや大きなリングピアスが光っているのはなかなか悪くない想像だ。 『うん! うち校則でダメだからとりあえず片耳にこっそりあけて髪で隠そっかなーって思うんだけど、ピアスって病院じゃなきゃあけちゃいけないのかな?』 「そんなことないっスよ。オレは家で自分であけたし」 『ええっ、そうなの? いたくない?』 「最初はめっちゃ痛かったっスね」 『ええーっ! そっかあ痛いのかあ……』 桃井の焦った声に、へへ、と唇の端を上げる。熱さも喉もとを過ぎれば忘れて、ただの武勇伝に落ちぶれるのだ。だからといって学習しないわけでもなく、黄瀬はモデル仲間から聞き出して、二つ目、三つ目の孔は一度目の苦難が嘘のように穏やかにあけたのだ。 (いわゆる、ヴァージンは特別っつーことかな) 思いついたそのうすら寒い言葉に自分でうへえと肩を竦めて舌を出し、黄瀬は続ける。 「やり方さえ間違えなきゃ、あんま痛くないっスよ」 『えっそうなの!? きーちゃんそのやり方わかるの!?』 「そりゃあもちろん」 知らなければこんな自信たっぷりに答えるものか。電話線の向こうで、気配が変わる。 『じゃあ、お願いしてもいい?』 「え?」 思わず唾を飲む。桃井の声は全く調子が変わらず底抜けに明るい。 『ピアスあけるの、一人でうまくできるか不安だし、できればきーちゃんにお願いしたいの』 「そんなカッコで大丈夫なの?」 そんなカッコも何も、放課後を迎えたばかりの高校生の黄瀬に制服以外の選択があるとでも言うのだろうか。待ち合わせた駅前の改札の隅で、桃井だって指定されたそれよりもだいぶ短くしたであろう制服のスカートをちらちらと揺らしている。すらりと伸びた太股は一層なめらかにおうとつを描いて、中二で出会ったときから桃井は完全なる美少女であったけれど、年相応の美しさを着々と追いかけているようであった。 「え、オレ、なんか間違えたっスか?」 それとも、桃井のような女子高生と二人でプライベートを歩くには、制服なんていう野暮で煩わしい拘束具ではだめなのだろうか。冗談とも正気ともつかない口調に黄瀬は中途半端な笑い方をしてしまう。桃井は目線を隠そうともせずに黄瀬の頭のてっぺんからつま先まで無遠慮に眺めまわし、指を顎に当てて首を傾げる。動きに合わせてさらさらと髪が流れ、見慣れない赤いリボンの上にかかった。 「うーん、モデルさんって意外と無防備に歩くもんなのね」 ああ、そういうことか。黄瀬は苦笑を漏らした。桃井は黄瀬が入部してからの二年間、体育館の入り口に群がる瞳の見えない黄色い声の束を見てきていたのだった。彼女たちは黄瀬のためならその身をも投げ出さんと熱を発しているのに、一人にしてほしいという黄瀬の願望はまるでかなえようとしてくれないのだ。 「案外気づかれないもんっスよ」 少し嘘だった。ただ、いちいち変装するのが面倒なだけなのだ。 「ふうん、ならいいけど」 言いながら桃井はごく自然にその身体を黄瀬の隣へ滑り込ませる。出会ったときから変わらない身軽さだ。背ぇ伸びた? と上目遣いに笑いかける顔も、肘に当たる桃井の身体のどこかの柔らかさも、女の子の生来のしぐさなのだとしたら、黄瀬は女の子という生き物がどうにも信じ難かった。その癖寄せられる体温には素直に喜んでしまうのだから、女の子からしても男の子というものは信じ難い生き物なのかもしれない。 それから桃井は黄瀬の案内でアクセサリーショップに売っているピアッサーや消毒液を買った。ショッピングモールを歩いている間、桃井はあちこちを指差しては楽しそうに笑い、身体を弾ませていた。幸い、黄瀬のファンに取り囲まれることもなかった。浮かれた高校生の他愛ないデートだ。新しく出た秋服を身体の前に合わせ、桃井は軽やかにポーズを決める。モデル目線で厳しく批評すると頬を丸くし、けれど次の瞬間にはもう満面の笑みを湛えている。桃井さつきという女はその表情をとってみても完璧で理想的だった。だから、黄瀬には余計に信じ難いのかもしれなかった。 そうして、黄瀬は初めて桃井を自宅へ迎えた。玄関口で行儀よく靴を揃え、出迎えた黄瀬の母親に躊躇なく挨拶のできる桃井を頼もしく感じながら、黄瀬は母親に菓子とジュース、そして氷水を用意してもらう。「桃井さん、いい子じゃない」何かを勘違いしている母親に苦笑しながら、黄瀬は「いやいや、友達だしあの子カレシいるから」と気まずくない答えを返す。あながち嘘でもないと思う。 桃井は黄瀬の部屋で大人しく待っていた。クッキーをつまみながら黄瀬はあける手順やピアスホールの手入れ方法、ピアスの種類の説明などを一通りする。モデル仲間が載ったというのでもらった女性向け雑誌に丁度似たようなことが書いてあるのでそのままあげると桃井は手を合わせて喜んだ。 「お返しするね!」 あまりに真っ直ぐ笑う桃井が眩しくて、食べ物だけはカンベン、と照れて笑うと、桃井はまた頬を膨らまして怒るのだった。怒っている姿もかわいい、というのはベタな誉め言葉だろうか。けれど、桃井はあくまで作られたように完璧で理想的な少女だった。 氷で冷やした耳たぶは赤く熟れていた。軽くつついて感覚がなくなっているかを確認し、消毒液で湿らせたコットンで拭う。桃井のポーチから無数に出てきたピンが巻き込まないように髪をかきあげてあちこちに止まっている。髪の内側に充満していたシャンプーなのか香水なのか体臭なのかわからない甘いにおいが鼻をくすぐって落ちつかない。 肩に触れること、髪に触れること、指やその他の他愛ないところに触れること、桃井相手には全てを経験済みだ。軽いハグだってしたことがある。それでも、髪のにおいは特別な距離を想起せざるを得なかった。 桃井は処女なのだろうか。 後ろ暗くどこか愉快な考えが湧く。黄瀬の知る限りで桃井に彼氏がいたことはない。黒子を追いかけ回し、青峰の隣を歩き、けれどそのどちらとも特別な関係があるようには見えなかった。高校に入ってからはどうだろう。半年近いブランクだ。思わず見える範囲の白い首筋をさっと眺めるが、そういった兆しは見つからない。口ぶりから考えて黒子への想いは続いているようだし、一方で彼女の身体の作りだす距離は侮蔑的な答えを引き出した。その考え方は、いつか桃井を口汚く詰った女達とまるで変わらないことに黄瀬は怯み、やっと思考から醒める。 狙いを間違えないように桃井の顎を片手で支え、桃井自身が鏡を見ながら慎重にマジックで印をつけたところに垂直にピアッサーの針を押し当てると、それまで目を閉じて身体の力を抜いていた桃井が薄く目を開けて、顎を覆う黄瀬の片手の内側でゆっくりと微笑んだ。弾けるように笑う普段の桃井とのギャップに黄瀬はどこかぞっとした。 「ねえきーちゃん、」 「何スか?」 「痛くしないでね」 遠い昔にも思えるあの日、覗き込んだ鏡に映る耳たぶが目の前の真っ赤な耳たぶに重なった。この部屋で黄瀬は自分のヴァージンを破ったのだ。あの永遠のような時間に意地で飲み下して閉じ込めた筈の涙が喉を這い上る。桃井の髪のにおいがつんと鼻に刺さり、黄瀬は息が止まってしまいそうだった。桃井の目線に曖昧に笑い返すことしかできない。 桃井の処女を奪うのは黄瀬だ。 ひと思いに針を押すと、がちゃんと強い音がして桃井の身体がどくりと震えた。そっとピアッサーを下ろすと、桃井の耳たぶには無骨なファーストピアスが引っかかっていた。見る限り出血もない。せき止めていた溜め息が黄瀬の唇からこぼれ出る。 「うわあ、ほんとに凄い音するんだねそれ! びっくりしちゃった!」 桃井はぱっと目を開いて鏡を手繰り寄せ、「うわあ、うわあ、」と繰り返しながら自分の耳を貫いているピアスを恐る恐る触る。表を撫で、裏側を探り、そっと押す。まだ氷水で冷えた耳たぶは何も感じないだろう。「ほんとだ痛くない! きーちゃんすごい!」先ほどまで眠ったように大人しかったのが嘘のように桃井は興奮し、携帯電話を取り出して夢中で自分の耳たぶを何枚も写真に撮る。質にこだわったせいで、まるで桃井には不似合いのファーストピアスだ。これから一ヶ月彼女はこれに留められてしまうのだ。 「きーちゃんありがとう!」 そうして振り向いた桃井の顔が、しかしみるみるうちにしぼむ。理由を問う前に、桃井が首を傾げながら携帯電話片手に黄瀬ににじり寄った。 「きーちゃん、どうしたの。わたし強がりとかじゃなくて、ほんとに全然痛くないよ」 「え、」 「そんな泣きそうな顔しないでよお」 ね? となだめるように笑った桃井のきれいに磨かれた爪を揃えた指の腹があっという間に伸びてきて、黄瀬の目尻でこぼれ落ちるのを必死にこらえていた水滴を拭う。気付けば喉に溜まっていた涙はとっくに瞼までのぼりつめて、桃井の指によって流れ出てしまったのだった。あまりにも明白な動揺と高揚が目に見える形で現れてしまったことがひたすら恥ずかしい。何でだろ、消毒液のにおいが鼻にきたんスかね、と笑って黄瀬は目をこすった。こすりながら、こみあげる笑いの止まらない自分が不気味だった。つい先ほどまで涙を溜めていた腹の中は空っぽで、笑いに合わせて小刻みに震えた。そっと鼻をすすって、黄瀬はゆっくりと目を細める。 「ねえ、桃っち、」 「ん? なあに」 「もう片方もあけたくなったら、またオレがしてあげるっスよ。人にやってもらった方が間違いないし、オレ慣れてるから」 説明くさい口調に自嘲する。敏い桃井はその意味を拾うだろうか。 「ほんとに!」 桃井の顔が輝いた。拾い上げないことに黄瀬は安堵しながらも僅かに落胆した。喜ぶ桃井は黄瀬の涙すらも忘れてしまったようだった。或いはそういう風に振舞ってくれているのかもしれない。女の子は信じ難い。でも、だからやめられない。 桃井のヴァージンは黄瀬のものだ。 |