熱い指先 不安定で不規則な足音が廊下の向こうから慌しく近づいてきて、部室のノブが引っかかりながら回される。別にノブが壊れているわけでもないのに無駄にがちゃがちゃと音が立つのは、回している人間がよほど動揺しておかしな方向に捻っているからだろう。 「すみませぇん! 日直で遅れちゃいましたぁ!」 どこか抜けた甲高い声と共に部室の扉が軋みながら開かれ、背の低い可愛らしい姿が文字通り転がり込んできた。肩で息をしているところを見ると相当走ったようだが、彼女、朝比奈みくるの全速力では走らないのとそう大差がないだろう。まあ努力賞というところか。 「ああ、皆さん、もう、集まってるぅ……! ひゃあぁ、お茶淹れなきゃぁ!」 がくがくと震える膝に手を突いて必死に呼吸を整えるみくるに、神であるところの少女が黒髪をなびかせて大股で近づいていく。その横顔をちらりと見て、いつもより不機嫌であることを古泉はぼんやりと感じ取る。彼女の機嫌を読み取るのは最早日課だ。整った眉が眉間に寄せられ、尖らせている唇はへの字に曲がり、それでも尚彼女は美少女と言うには申し分のない顔立ちをしていた。 「みくるちゃん遅いわよ! 今日は新しい衣装を用意したのに! これ、着るの時間かかるんだからね!」 言いつつ涼宮ハルヒの手はみくるの肩を乱暴に掴み、引き上げる。みくるの喉からは無理に空気を吸い込んだような甲高い音が捻り出され、古泉一樹は真正面に座っていた彼と一瞬目を合わせた。 彼は無理矢理腕を掴まれて部室の奥へ引っ張られる愛らしい上級生と、苛々を隠そうともせずにそこら中のパイプ椅子をがんがん蹴りながら奥へとみくるを誘う少女を見て眉をしかめていたが、古泉がこちらを見つめていることに気付くと、少し目を逸らしてやれやれと溜息をつき、強制着替えが始まる前に席を立つ。 「古泉、出るぞ」 「そうですね」 哀れな悲鳴を背に部室から出る。少し気になってちらりと背後を見遣ると、今にも制服を引っぺがされようとしているみくると背後から羽交い絞めにしてみくるのスカートのベルトに手をかけるハルヒの横で、膝に置いたハードカバーに静かに目線を落としていた長門有希が同時に顔を上げ、こちらを真っ直ぐ見上げてきた。まるで古泉がそちらを見ることを予想したような動作に虚を突かれて、動きが止まる。みくるの悲鳴もハルヒの怒声も、音という音がいきなり静まって、目線だけが交差する不思議な空間が現れる。 鋭いわけではない。きついわけでもない。柔らかくもない。無表情に、何も浮かべない視線に、しかし古泉は胸を抉られるような感覚を覚えた。 長門の大きな瞳が一度瞬きをし、再び本に視線が戻り、喧しい音が戻ってきた。 思わず溜息をつきそうになって、自分が酷く緊張していたことに気付く。 「おい古泉、早く出ろ。朝比奈さんの生着替えを見るつもりか」 半開きになったドアの外から、やにわに暖かい手のひらが伸びてきて手首を掴まれ、半ば引っ張られるようにドアの外に出る。空間を断絶するノブの音と共にドアがきちんと閉まり、彼はドアを背にして座り込んだ。未だに彼の手は古泉の手首を離さずにいたので、古泉も釣られるように腰を下ろす。 廊下には誰もいない。元々この部室棟を物置としては使っても活動部屋にするクラブというのは少ないし、いても例えば文芸部のような少数派なのである。放課後に入って間もないこの時間、人がいないことなど当たり前だ。 完全に静かなわけではないのだが、息を潜めたくなるような静寂が身体中に触れている空気に孕まれていて、閉鎖空間にいるような気分に囚われた。あそこが大嫌いだと言うわけではないが、少なくとも好きとは言えない。 ドア一枚で阻まれた向こう側では、どたばたと激しく暴れる音まで聞こえてきた。みくるが野蛮な抵抗などできる筈がないだろうから、恐らくは上手く着せられないことにハルヒが苛立っているのだろう。 先ほどの不機嫌を滲ませた横顔と中から聞こえる音が重なって震え、古泉は目を閉じて少し項垂れた。神は何を不満とするか。 「古泉、」 不意に低く囁くように出された声に、目を開く。耳元によく響いたと思えば、彼の顔は思わぬ近さまで迫ってきていた。無気力な瞳だと常々思うのに、至近距離で見ると、何と目を離しがたい光を放っているのだろう。握られた手首の内側で、温い汗が溜まっていく。 吸い込まれるように彼の顔は古泉に近づいていき、古泉はその意味を悟って息を止める。目を閉じてじりじりと待つこの息苦しい微妙な間が、古泉は少し苦手だ。 重ねられる唇からは、柔らかいだとか甘いだとかそんな幻想めいたものは少しも感じられない。平熱よりも高く微熱と言うには早いくらいの温度を保った唇は、彼が確かに生きてそこにいる人間であることをひしひしと感じさせるだけだ。彼のしっかりとした指はいつの間にか肩に回され、古泉は自分を抱き寄せる熱い手に身を竦ませた。 一旦離され、また熱が重なる。今度は唾液を含んだ舌が口内に侵入してきた。少し体勢が変わり、古泉は身じろぎをして辛くない位置に身体を置いた。寄りかかっていたドアに、耳が当たり、ドアが軽く軋む。 唐突に、中の喧騒が鮮明に耳朶を打った。 だからみくるちゃん、その穴は飾りなの! 手を通す穴はこっち!! ああもう、ここほつれちゃったじゃない! ハルヒのヒステリックなきんきんと高い声が古泉の耳の中で暴れ回る。先ほどよりも苛々が増しているように思えるのは語調のせいだろうか。 彼の舌が自分の舌に絡んできたのを感じた。彼の動きに答えて、古泉も舌を動かす。熱い。どろりと濃いやり取りが言葉を交わさない唇で何度も繰り返される。目の裏に浮かぶのは、しかし彼ではなくて、写真で切り取ったようにくっきりと映る不機嫌で自分勝手な神の横顔だった。 ああもう、違うの! そうじゃなくって! 一際甲高いハルヒの声がして、古泉はびくりと大きく身体を震わせた。すると、その動きを不審に思った彼が舌を引き抜き、あっけなくなるほどあっさりと唇を離した。間近で繰り返される息は少し荒い。 キスを中断されたことに、古泉は何故か酷く安堵し、安堵したことに不安を覚えた。思わず唇を閉じて、口内に残る彼の舌の感触の残る場所を舌先で辿る。確かに自分は彼と口付けを交わした。生々しく残る唾液の味はそう語る。何故だ。好きだからだ。そうだその筈だ。 「古泉、どうした」 低く少し掠れた声が囁かれる。心底古泉を案じている声音。その優しさに甘えたいと思う一心で、耳の奥にはハルヒの声がこびり付いている。何度も忘れようと思ったけれど、結局未練がましく残ってしまう、涼宮ハルヒの声。 「あの、」 ちょっと前から、否、彼とこのような関係になったそのときから、否否、彼のことが気になり始めてから、常に心にあった葛藤を古泉は噛み締める。ポーカーフェイスが売りの自分は、表情にも言葉にも声にも出したことはなかったけれど、常に現れる迷いはいつも同じで、ひた隠しすることに慣れすぎていた。 こんなものを抱えていて、彼の優しさに甘える資格など、元より自分にはないのだ。今日こそ言おうと思っていた。 肩に回された手が熱い。 「こういうの、やめませんか」 「え、」 「もう、こういう風にするの、やめましょう」 彼の目を見ずに、古泉は淡々と言葉と連ねていく。嘘は簡単だ。人は簡単に騙せる。嘘と気付かない方が幸せなことが、世の中たくさんある。嘘も方便とは、先人もよく考えたものだ。嘘でこそ成り立つ世界は吐いて捨てるほどその辺に転がっている。 「何度も同じ科白を言わせないでください。恋人ぶるのはやめましょうと言っているんです。こう言えば分かりやすいですか? 僕はあなたにもう飽きたんです。あなたとこの関係を続けていてもデメリットばかりが増えて何も生まれません」 一息に言ってみた。我ながら何ともよく動く舌だと思う。 「だから、もう、やめましょう」 肩がずしりと重くなった。彼の手から力が抜けたのだ。握られていた手首も解放される。古泉は軽く首を振って前髪をずらし、わざと視界を遮らせる。彼の顔を見たくない。きっと、この好きで好きで堪らない人は、古泉が最も見たくない表情を浮かべているに違いないから。 「……っ」 彼の口から何かを言おうとして言葉にならない音が漏れる。彼から発される全てを聞き漏らすまいと片方の耳が身構える一方で、もう片方の耳はいつの間にか暴れる音の止んだ部屋の中の音を聴いていた。 上履きが勢いよく床を踏みしめる音がして、ノブが音を立てる。 彼の身体が素早く古泉から離れるのを気配で感じた。こんな至近距離でくっついているのを見られては、世界が終わってしまう。こうして足音で瞬時に距離を取るのは、二人にとって条件反射であり、暗黙の了解であった。 ドアがばんっと開かれ、少し機嫌の良くなった顔が廊下に飛び出る。 「ほらもう入っていいわよ!」 さっ古泉くん! と、腕を掴まれて立たされ、中に引っ張り込まれる。ハルヒの指はいかにも器用そうに一本一本が細く長くエネルギーに満ちていて、しかし実際は少女の繊細な指でもあった。 腕に触れている指先が熱い。 どうして彼も彼女も、指先がこんなに熱いのだろう。思わぬ熱に戸惑ってしまう。 「ほらキョン! 何転がってるのよ、早く入んなさいよ」 振り返ったハルヒの顔には先ほどの不機嫌は欠片ほども残ってないように窺えて、古泉は安堵する一方、身動きできないでいる彼の気配に、背筋を震わせた。 「あ、ああ」 珍しく気の抜けたような返事と共に、彼が立ち上がって古泉の後に続いて部室に入ってきた。視界の端に捉えただらしない制服姿を、古泉はこっそりと確認する。 部室の奥には、無駄に装飾の多い癖に露出度がいつにも増して高いゴスロリ衣装に身を包んで涙ぐんでいるみくるがいた。意味をなさない言葉を艶めく唇からこぼしている。長門は相変わらず我関せずと言わんばかりに読書に耽っている。いつもの光景だ。 「やっぱりみくるちゃんに着せて正解だったわ! 似合う似合う!」 ハルヒは嬉しそうに様々な場所についているレースを整えながら、みくるの回りをぐるぐると歩き回る。一気に上機嫌になったらしい。瞳に迸る光が、何よりそれを語っていた。 「よし! みくるちゃんこの格好で街を探せば、不思議があっちからやってくるかもしれないわ! SOS団の宣伝にもなるし、行きましょう!」 透けているレースに覆われた脆そうな白い腕を掴み、ハルヒは強引にみくるを引っ張る。 「あっ、えっ、すっ涼宮さぁん……! こ、これで外に出るんですかぁ?」 「当たり前じゃない! 何のためにこれ着たのよ!」 無駄と分かっていながら精一杯抵抗を試みるみくるである。やがてその目はハルヒから外されて、古泉の斜め後ろの彼に向けられる。潤んだ双眸は、大抵の男ならばこれだけで身を擲って彼女を助けたくなるであろう扇情的なオーラを放っていた。 軋む床を踏みしめて彼が歩き出し、古泉の横を何でもないように通り過ぎてハルヒとみくるに近づき、ハルヒの腕を掴んで牽制の言葉を掛け始める。ハルヒは威嚇するように顔を歪めて彼の文句を鋭く突っぱねる。不毛な言い合いが勃発し始めたが、ハルヒの表情には不思議と不機嫌の色はない。 きっと、無意識下で、涼宮ハルヒは彼との会話を楽しんでいるのだ。 完全に蚊帳の外となった古泉は、始めから蚊帳の外に、否、自分から蚊帳の中にこもっている少女に目をやる。 古泉が彼女を見る前から、長門は古泉の方をじっと見詰めていた。心臓がどくりと嫌な音を立てて一度大きくうねり、足が竦む。 どうやら、何かを古泉に伝えたいらしい。何となくそう察して、古泉はさり気なく長門の方へと近づく。相変わらず目線を逸らしてくれないのが、居心地の悪さを倍増させた。 「あなたは、それでいいの」 囁くように小さな声が、古泉に向けられる。 「さあ、何のことを言われているのか、僕には皆目見当もつきませんね」 わざと惚けた科白で、笑ってみせる。笑顔は得意で癖だ。そんなものがこの宇宙人に通じるかどうかは分からないが、ただの超能力者である自分にはこうして偽りの笑顔を振りまくことしかできないのだから、そうするしかない。 「そうして惚けているだけでは、事態は解決しない」 長門が、ふと視線を古泉から外し、未だに痴話喧嘩と呼ばれても仕方ないようなやり取りをし続ける二人を捉える。最小限の動きを極めた唇は、さらに言葉を紡ぐ。 「それは、あなたが一番分かっている筈」 射竦めるような言葉と共に向けられた視線を、古泉は受け止められずに逸らす。返す言葉も見つからない。所詮自分はただの超能力者だ。宇宙人に敵う筈もない。 彼が頑張ったおかげで、最終的にハルヒはみくるを連れて外に出るのは諦めたらしい。だが、いつの間にか手に握られているデジカメは様々な方向からみくるを激写し、みくるはそのたびにやはり言葉にならない言葉を上げてふわふわと抵抗とも言えないような抵抗をする。それはやはり驚くほど普段の光景と言えるものだった。 そうだ。いつも通りのSOS団で、今日という日も過ぎていく。 この先もいつものように過ごしていよう。暫くは彼と目線を合わせられないかもしれない。だがそれも時間が解決するだろう。 これで良かったのだ。三年前から自分は選択を違えることはもうなくなったのだから。 すっかり日の落ちた空を見上げてそっと嘆息する。高校の三年間などきっとあっという間だ。毎日が楽しくて仕方ないから、それは少し寂しい考え方だったが、考え方を変えても流れる時間が変わるわけではない。ただ、経た昨日を振り返り来る明日を思って、飛ぶように過ぎ去る時間に流されるだけだ。 街灯の点き始めた道を一人歩む。団の誰とも家の方向が違う。帰り道の一人の時間は、ゆっくりと一日を振り返れるので、それなりに楽しみだ。 鴉や鳩の声が幾重にも合わさり、薄暗い辺りには昼の残り香のような暖かさが満ちている。先ほど自分は酷いことを彼に言ったのに、驚くほど足取りは軽かった。いや、軽いのではない。夢の中を歩いているように足元が覚束ないのだ。手応えのない足の感覚に、しかし古泉は何かを感じることもなくただ家路へとふらふら彷徨っていた。 突然熱が肩を掴み、無理矢理歩みを止められる。この熱は、よく知っている。間違えようもない。心臓が大きく蠢き、足元からひやりと冷気が昇ってくる。 「古泉」 低い声が、ひたすら怖かった。恐怖にかられて逃げ出したくなるのは実に三年ぶりだ。 「何でしょう。わざわざ追いかけてまでして、何かあるんですか?」 答える声に震えはない。こんな程度で内心を悟られるような真似はしない。 「こっちを向けっての」 掴まれた肩を強引に振り向かされる。崩れるバランスを整えながら振り向いた両目が捉えたのは、夕闇の濃い影にくっきりとなぞられた彼の顔だった。 目線が合う。目を逸らしがたい光が、古泉だけを射止める。 動揺などしない。しない筈だ。 彼の口が開き、油断のない動きをする舌が一度唇を舐めて言葉を紡ぐ。 「お前無理してるだろ。昼間のアレ、嘘だろ」 「そんな根拠どこにあるんですか」 肩を掴んでない方の手が、古泉の手首を掴んだ。至近距離に顔が近づき、古泉を睨み付ける。古泉は押されるように半歩下がると、彼はもっと踏み込んできた。 「お前は、俺の目を見て言ってなかった。根拠って言ったらそれくらいだ」 空気一枚の向こうから、搾り出すような声がぶつかってくる。 「俺と目を会わせながら、お前、さっきと同じことを、今、ここで、もう一度言えるか?」 目を逸らしたくて仕方がないのに、どうしてこうも逸らしがたい光を帯びているのだろう。彼の顔が言葉を交わすものではない距離まで近づいてくるたびに、そう思っていた。人と目線を合わせるのはあまり得意ではない。笑顔さえ見せていれば大抵の人は騙せるけれど、目を合わせるだけでばれてしまう嘘というのが確かに存在するからだ。 彼の瞳が潤んでいるように見えた。彼の顔が歪む。 その歪みの正体が、自分の瞳から零れる涙だと気付いたのは、肩を掴んでいた手が頬に伸びてきてその雫を拭ってからだった。 「……う、ぁ」 喉の奥に何かが引っかかり、上ってくる。それを懸命に飲み下しながら、古泉は目尻から流れ出る涙を必死に止めようとした。予想外に脆く涙を流す自分が信じられない。 「お前が無理することなんて、ないんだ」 頭の後ろに手を回されて、抱き寄せられる。仄かに汗臭いシャツの襟元に鼻先をくっつけながら、古泉は身体中が震えるのを感じた。涙は止まらない。 子供をあやすように背中をぽんぽんと叩かれた。彼の触れたところはどこも暖かくなる気がする。一度しゃっくりが出て、古泉は関を切ったように喋り出した。 「僕は、あなたのことが好きなんです。凄く、凄く、あなたのことが好きなんですよ。飽きたなんて嘘です。さっきのは嘘なんです。不安だっただけなんです」 「知ってる」 耳元にぶつかる息が心地良くて、古泉は目を閉じる。 「でも、僕は涼宮さんのことも、凄く、凄く、好きなんです」 彼は何も答えず、抱き締める腕に力がこもり、古泉は頬を彼の鎖骨に押し付ける。熱に包まれて、少し息苦しい。 「涼宮さんが穏やかでないのは、僕が穏やかでなくなるのにつながるんです」 一息つく。しゃっくりがまた出てきた。高校生にもなってしゃくり上げながら泣くなんて恥ずかしいと思うのに、止まらない。 「もし、僕とあなたのこの関係がばれたら、きっと彼女は世界を壊すでしょう。僕はそれが怖くて仕方ないんです」 「……そんなの今更だろ」 いつの間にか辺りは暗くなっている。街灯が地面に作る光の輪の外に二人は立ち尽くしていた。人通りのない道で、二人の息遣いはよく響く。 「涼宮さんはあなたのことが好きなんです。僕はただの邪魔者でしかない。僕は、涼宮さんの好きな人を奪っているこの関係にも罪悪感を抱いているんです」 抱き締める手が離れて古泉の両腕を掴んで引き離し、顔を向かい合わせる。瞳と瞳がぶつかり、古泉は彼の目の中にいる自分を見つめる。 「そんなことっお前が気にする必要が――」 「あるんですよ、残念ながら」 何故なら彼女は、僕や、僕の同志の神なんですから。 呟くように吐き出される言葉には、相応の重みがあった。 さらに何かを言おうとする彼の熱い唇を指で押さえ、古泉は微笑む。 「でも、分かりました」 肩に手を掛け、軽く啄ばむように口付ける。 「ばれなければ、いいんですよ」 口内に吹き込むように囁いて、また唇を重ねた。最初はこちらの方が優勢に立っているつもりだったのに、いつの間にやら彼に強く抱きすくめられている自分がいる。結局彼の優しさに甘えてしまう。 いいのだ。ばれなければ。 ひっそりと濃密なやり取りを交わす二人の姿は、今や闇となった道端の暗がりに紛れて溶けていた。 「古泉、」 「何ですか」 「ばれなければいいって、今までもそうだっただろうが」 「そうですねえ、――でも、」 「何だよ」 「あなたとこういう関係を続けていても、彼女が知らないのならば罪悪感を抱く必要もないと思いまして」 「つまり?」 「考え方を変えたら、気が楽になりました、ということで」 「……お前は、何でそんな今更な問題を今更持ち込んで今更そんなに悩むんだ」 「そういう性分なんでしょう」 街灯の下を通るたびに二人の影が濃く浮き上がって伸び、重なり合い、また薄くなっては消えていく。夜道は少し冷えていて、熱い身体に丁度良かった。 「古泉、」 「何でしょう」 彼の方を見ると、彼は珍しく視線を逸らしてぼそりと言った。 「部屋、今から行っていいか」 何だそんなことか、と古泉は笑う。小さいことでも幸せに思う。 「いいですよ。何も出せるものはありませんけど」 「ばーか」 彼の男らしく骨の浮き出た指が、古泉の額をちょんと突く。 「お前がいたら、それでいいんだよ」 |