ああ、まずい。会話がない。とりあえず横を歩くだけ。気まずくない沈黙を保つ術を知る隣の人は、端整な顔を崩さずに淡々と傘の柄を握る。 勢いはいつしか激しさを増し、傘を叩く雨粒はより一層太くなるのみである。 相合傘 「ちょぉっと! 俄か雨!?」 スカートの裾が踊り、カチューシャのリボンを豪快に揺らして、その少女は窓を仰ぎ見て叫んだ。驚いて顔を上げると、確かに窓に水滴がいくつも付着して滑り落ちている。よく耳を澄ましてみれば雨音が建物全体を包み込んでいるのが分かった。少女――涼宮ハルヒは、盛大に眉をしかめて腕組みをし、天気予報のキャスターの悪口をぶつぶつと呟き始める。文句を言っても彼らが悪いわけではないのだが、記憶に残る今朝の予報では曇りとしか言っていなかった気がしなくもないので彼女が怒るのも無理はない。 同時に、みくるはあっと声を漏らした。 「あら何? みくるちゃん」 ハルヒがくるりと振り返って、みくるを見据える。この瞳はいつも苦手だ。要領を得ない返答しかできないみくるを、時折責め立てるように鋭く見つめてくる。 「あ、あのう、……わ、わたし、」 「何よどうしたの。いきなり変な声上げて」 予期せぬ雨のせいか、涼宮ハルヒは苛々としているようであった。みくるははっとして横目で青年を見遣る。チェスの駒を長い指で摘む青年――古泉一樹の横顔は、胡散臭く見えるいつもの微笑を湛えていた。感情を読み取ることのできない笑顔である。 「傘、を……忘れちゃって」 恐る恐る言うと、ハルヒの腕組みをする肩の力がふっと抜けた。 「あら何だ、そんなこと? あたしもよ。大体偉そうに今日は雨降らないだとか報道されたら持ってこないに決まってるじゃない」 言葉の棘が和らいだのを感じて、みくるは全身の緊張を少し緩めた。どうやら彼は仕事をしなくても済みそうだ。この程度のストレスで彼女の無意識が攻撃を求めることはないとは分かっていても、ストレスの原因を作ってしまうことは恐ろしかった。 「キョン! あんた傘持ってきた?」 みくるのことなど構わずに、ハルヒは古泉と相対しているもう一人の青年に歩み寄っていった。何と歩調の猛々しく誇り高いことか。そのように振る舞える彼女を心底凄いと思う。 「置き傘はある」 一方、チェス盤から目を逸らさないもう彼は、この時代の若者らしくやる気のない一声を返す。何度やっても勝つことは決定されているようなものなのに、それでも気を緩めないのは彼なりにこのゲームを楽しんでいるのだろうか。みくるはそのようなゲームができないので分からない。 「じゃあ、あたしを入れていきなさい」 彼の隣に仁王立ちしたハルヒは人差し指を突きつけ、女王様よろしく言い放つ。 「は? 何でだよ」 「あたしにずぶ濡れで帰れって言うの? 恐れ多くもあんたも傘に入れてあげるって言ってるのよ」 「俺は入れとは頼んでない」 「ならいいわ、あたしと一緒に入るのが嫌っていうなら、あんたの傘はあたしが使うから、あんたはずぶ濡れで帰りなさい」 「意味分かんねぇ……わぁったよ、入れりゃいいんだろ」 早々と諦めた口調で、彼は渋面ながら承諾する。いつものやり取りだ。一芝居を打たないと素直に傘に入れてもらうことすらままならないことに、彼女も彼も薄々感付いている。 「決まりね! じゃあ古泉くん、」 ハルヒが今度は古泉に向き直る。口角が普段の一割り増しで上がっているところを見ると、希望通りにことが進んだのが嬉しいのだろう。 「何でしょう」 気分に寄らず、年中口角が上がっている青年がにこやかに答えた。小首を傾げる動作も完璧である。 不思議とハルヒは古泉に向かって人差し指を向けることが少ない。誰に対しても変わらずに命令口調ではあるが、彼やみくるに対するそれとは少し違う。或いは潜在的に古泉の笑顔の仮面に気付いているのかもしれない。厄介な命令や注文に不満一つ漏らさずベストを尽くして取り組む彼の裏側に。 「古泉くんは傘あるわよね? みくるちゃんを入れてあげて、家まで送りなさい!」 「分かりました」 即答である。みくるが素っ頓狂な声を上げたことなど構いもしない。古泉が傘を持っていることを前提に話を進めるハルヒにも、展開を予測していたが如くそれを二つ返事で承諾してしまう彼にも、つくづくみくるは驚いてしまう。みくるのことなど無視して、ハルヒはそのまま端で読書に勤しむ少女に話しかける。 「有希は傘ある?」 「ある」 こちらも即答である。機械的且つ効率重視の声音に、しかしこの頃感情の起伏らしいものを見出せるようになったのは付き合いの長さか、それとも彼女がより人間らしさに近付いたためか。長門有希は本から顔を上げない。 「じゃ、これ以上雨が酷くならないうちに今日は帰りましょ」 ハルヒがぽんと手を打つ。古泉はチェス盤から駒を回収して箱に入れ、彼はチェス盤そのものを片付ける。有希は栞を挟んで本を閉じ、鞄に仕舞い込む。全ての動作がてきぱきと行われる中、未だにみくるだけが取り残されていた。 それに気付いたハルヒが彼の背中を乱暴に押す。 「ほら、男子は出て行った出て行った! みくるちゃんが着替えられないでしょ!」 促されるままに二人の青年はドアの外に追いやられ、みくるがエプロンを外し終える前にハルヒの手が伸びてワンピースを脱がされる。思わず口走る悲鳴は決して狙ったわけでも出したいわけでもないのに、ハルヒはひたすら喜んでさらに動きをエスカレートさせる。どさくさに紛れて胸を揉まれるのには最早慣れてきた。ハルヒの指は長くしなやかで、柔らかい。 一騒ぎして制服に着替え終えて三人で外に出ると、青年二人は手持ち無沙汰に壁に寄りかかっていた。部室の照明を落とすと思いの外暗くなり、外の音が一層際立った。 雨は、まさに酷くなろうとしている。 校舎を出る際、自分から寄っても良いものかと逡巡するみくるに古泉が声をかけてきた。 「朝比奈さんの住所は分かりますので、ご心配なく」 言って、自然な動作でみくるを導くのだから、この古泉一樹という青年は底が知れない。本当に高校生なのだろうか。年齢は間違いない筈だが、どうしても信じ難い瞬間が今までに幾度となくある。 「あの、ええと、ごめんなさい、」 「いいんですよ。傘を貸すくらい何でもありませんし」 みくるの慌てた謝罪を軽く手を振って遮り、彼はみくるを隣に立たせて傘を差し歩き出す。先に出ていたハルヒと彼の傘が不安定に揺れて、深緑色の傘の下から太陽の輝きを思わせる弾んだ笑顔が覗いた。 「じゃ、みくるちゃんに古泉くんに有希! また明日ね!」 白い歯を見せて笑い、ハルヒの指が彼の持つ傘の柄を握り締めて奪い取る。その拍子に彼の肩が傘の外に出て、瞬く間にシャツが透ける。彼の諦めを感じさせる抗議の声が遠のくのを聞きつつ、古泉に導かれるままに彼らとは反対方向を歩む。有希は既に消えていた。傘を差す音すら聴こえない。 (あ、そうか) ふと気付く。傘を奪い取ったのもハルヒなりの気遣いなのだ。借りている身分で持たせているより自分で持ってやろう、ということなのではないか。時が進めば進むほど、ハルヒという少女は柔らかさを身につけていっている。特に、彼に対して。 「ああぁの、古泉くん、」 みくるの歩調に合わせてくれているのが分かる、ゆっくりとした足取りを止めないまま、古泉は部室と変わらぬ笑顔をみくるに向けた。 「何でしょう」 「傘、持ちましょう、か? あ、あたしが忘れたのに」 言葉を捜す。どもらないで喋るのは苦手である。相手によってはうざったく思われてしまうが、どうにも直せない。うろうろとしている間に、古泉は目を細めたまま答える。 「それには及びません」 「でも、」 「それに、」 少し困ったように古泉はくすりと口元を緩めた。 「あなたと僕の身長差では、あなたが傘を持つのは辛いでしょう」 「あ……」 頭ひとつ分と少し。みくるは目の高さにある古泉の肩から顔をゆっくりと見上げる。 そうである。根本的なことを忘れていた。みくるが傘を差すとしたら、古泉が屈むかみくるが背伸びをするしかない。 「そ、そうでした」 答える声が小さくなる。古泉が答えてくすりと笑った。 できもしないくせに、差し出がましく口を出した自分が恥ずかしい。俯くと、水を弾いて光る丸い靴の先が見えた。傘があろうがなかろうが足元は酷く濡れてしまうもので、靴下も水を吸って重い。気遣う足取りで隣を歩く大きい革靴も重く湿って暗い色になっている。靴の大きさに、みくるはぼんやりと彼が普通の青年であることを感じた。非日常に深く関わる人間であっても、古泉一樹は人並みの靴サイズの一高校生なのである。 それにしても、何と真っ直ぐ歩く人なのだろう。自分を比較対象にしてはいけないことは重々承知しているが、同年代の彼らと比べるに及ばぬきれいな歩き方である。踏む場所を予め決めているような正確さに、彼の性格を感じる。 否、彼の性格など本当のところ分からない。「古泉一樹」は彼の仮面であり、涼宮ハルヒをよりベストな位置で監視する記号なのだから。 「朝比奈さん、信号です」 声と同時に彼の足が揃い、歩こうとしていたみくるの肩を骨ばった手の平が止めた。 「ひあっ、すっすみませぇん!」 走る車は急には止まれないが、歩くみくるも急には止まれない。つんのめって車道に出そうになったみくるの動きを予測していたかのように、古泉の片腕が易々とみくるを抱き留める。最早意味のある言語を喋れなくなったみくるをよそに、古泉はみくるが自分の両足で自分の体重を支えていることを確認するとそっと手を離した。古泉が一瞬触れていた部分がやけに涼しく感じられた。 一瞬傘の外に出ただけで、随分ずぶ濡れになってしまうほど雨は酷くなっていた。顔を上げられないでいると、目の前にすっとハンカチを出された。群青の生真面目なハンカチだ。驚く間もなく、頭上から声が落ちてくる。 「どうぞお使い下さい。そのまま返して頂いて結構です」 「あっ……ありがとうございます、」 「いつもこの調子では危なっかしいですね」 冗談交じりの声に、みくるはますます自身に落胆する。俯いたままハンカチを受け取り、顔や髪を素早く拭った。ハンカチからは洗濯機の洗剤の匂いがして、古泉が今日はまだ一度もこのハンカチを使っていないことにみくるは気付く。学校に行って一日中ハンカチを使わない日などあるだろうか。否、あるにはあるが、同年代の男子よりも大分身嗜みに気を遣う古泉に限ってハンカチを使わないことはないような気がする。 このハンカチは、自分以外の人に差し出せるように持っているのではないか。 もう一枚ハンカチを持っていてそれは自分で使い、このハンカチは誰か――誰かが必要になったときにすぐに出せるように用意しているのではないか。 深読みのし過ぎだろうか、とも思う。偶々今日古泉がハンカチを使わなかった可能性の方が強いことも分かる。だが、一概にその可能性に賛成できない自分も、確かにいる。 古泉は、涼宮ハルヒにこのハンカチを使って貰うために、鞄に忍ばせているのではないか。 「朝比奈さん、信号が青です」 肩を叩かれて、不審に思われるに違いないほどびっくりした。はいと言ったのかいいえと言ったのか分からないような返事をして、古泉のエスコートに従い横断歩道の白の横縞を踏み越える。 俯いていると足元ばかり見るから、つい小学生のように白い部分だけ踏みそうになる。しかしただでさえ安定しないみくるの足並みで雨の日にそのようなことをしてみれば結果は見えてくるもので、即ちみくるは再びつんのめった。今度は古泉の手も間に合わなかった。 「ひゃあぁぁぁっっ!」 「朝比奈さんっ」 自分でも哀れだと思うくらいみっともなくべしゃんと転んだ。鼻先は濡れたアスファルトの匂いを敏感に嗅ぎ取り、制服越しに水がじわじわと沁みてくる。擦れた肘や手の平や膝が痛い。古泉のそれなりに驚いた声と共に、ゆっくりと助け起こされる。鞄は少し離れたところに転がって雨に打たれていた。最早傘を差されても意味がないような己の有様と転んだショックでみくるは泣きそうになる。 だが、ここでは泣けなかった。これ以上古泉の心の負荷を増やすわけにはいかない。いや、それは綺麗事だ。もっと身勝手で自分のことしか考えられていない理由が自分にはある。 古泉に嫌われたくないのだ。 その一心で、みくるは涙を呑み込んだ。信号が変わると告げ、古泉が手早くみくるを立たせた。動作は速いのに、相変わらず丁寧である。さり気なくみくるの鞄も古泉が拾い上げる。手を引かれるようにして小走りに進み、古泉は屋根のあるバスの停留所までみくるを連れて行った。 「膝と手の平を擦りむいているみたいなので、そこにお掛け下さい」 「……すみません」 促されるままにみくるは安っぽい椅子の端に小さく座る。古泉の目がまともに見られない。どうして失敗ばかりするのだろう。失敗は成功の元なんて絶対嘘だ。失敗は新たな失敗を生むばかりで、一向に成功を兆さない。 「転んだものは仕方ないですし、一先ず傷口を拭きましょう」 言って、古泉はみくるの手が未だ握り締めていたハンカチを取り、屈んでみくるの膝を拭った。幸い軽く擦った程度なので血もあまり出ていない。みくるは古泉の整った旋毛を薄ぼんやりと見つめる。 古泉は丁寧過ぎるほど慎重にみくるの膝を拭き、次にみくるの右手を取った。何をしようとしているのか悟ったみくるは途端に羞恥が込み上げてきて、半ば古泉から右手を庇うように離し、切れ切れに言った。 「古泉くん、あ、後はあたしが自分で、や、やりますっ」 「じゃあお任せします」 多少雨に濡れた古泉が、微笑んで引き下がる。仮面の笑みと分かっていても、その柔らかさに安堵する。古泉が怒っていない筈がないのに、希望的観測をしている自分をみくるは自嘲する。 古泉が鞄からもう一枚ハンカチを取り出した。こちらも濃い色の生真面目なハンカチである。みくるはそれを目で辿りながら、先ほどの推測に確信を持った。今古泉が使っているのは古泉自身が使うためのハンカチで、今みくるが使っているのはハルヒが使う筈だったハンカチなのだ。 覚束ない手付きで手の平を拭き、ついでに前面隈なく汚れた制服や顔や髪を拭いた。みっともないことには変わりないが、拭くのと拭かないのとでは大分気分が違う。転んだ報いとして家までの距離はこの格好で我慢することにする。 泥の斑が散る制服の前面を見下ろすみくるに、古泉の声がかぶさった。 「すみません、セーターかカーディガンを持ってきていれば良かったのですが。ご自宅まではそのままで我慢して下さい」 思わず息を呑んだ。信じられない。どうして彼は憤慨しないのだろう。間抜けにも転んで時間と手間を取らせる自分に、古泉はどうしてここまで優しくなれるのだ。 「あっそんなっ……あ、あたしが勝手に転んだのが悪いのにっ」 どうしよう。何を言おう。迷っているうちに、古泉がみくるの手を掬い取って立たせる。再び傘の内側に入り、無言で歩き出した。もう信号はない。もっと気をつけて歩かねばならない。古泉に迷惑をかけたくない。古泉に嫌われたくない。 古泉の足取りは、相変わらず優しい。 「では、ここまでで宜しいでしょうか」 傘の下で古泉が薄く笑んだ。みくるは頭を下げる以外に何もできない。古泉の住所はデータで目を通したものの正確な位置は今ひとつ分からないが、みくるとは反対方向であった筈である。古泉はこれから今まで通ってきた道を反対に進まねばならないのだ。地面を穿つ雨足は強く、これからの古泉の道のりを思うだにみくるは申し訳なさで一杯になる。 「本当にすみません……ごめんなさい、こんな、あたし、馬鹿ばっかりで……」 「全然構いませんから、どうぞ頭を上げて下さい」 古泉の声音はしっとりとみくるの心に沁み込む。家に何か古泉にお詫びに渡せるものはないかと頭を巡らせるが、無駄なものを置かない習慣が災いして菓子の一つさえない。家に上げて暖かい紅茶を淹れようかとも思ったが、引き止める方が迷惑に違いないと思うと言い出せなかった。髪を拭くためのタオルはどうか。否、彼は自分のハンカチを持っている。何か、何か。 「ああ、朝比奈さん、」 微笑を湛えたまま古泉が問うた。 「は、はい」 「ハンカチ、まだ渡したままでしたよね」 はっとする。右手に湿った感触があることにみくるは今更のように気付き、思わず強く握り締めた。返還を促すように差し出された古泉の大きな右手を遮り、みくるはきっぱりと言った。 「あの、お洗濯して、お返しします」 「いえ、そのまま返して頂いて結構で、」 「せめて、」 古泉の言葉を遮って、みくるは目の奥から込み上げるものを飲み下しながら、やっと古泉の目を真っ直ぐ見て言った。 「せめて、これだけはさせて下さい。お願いします」 一呼吸分古泉が黙り、みくるは息を詰めた。古泉の微笑が、ほんの僅か真顔に戻った。滅多に見ない顔にみくるは呼吸を忘れて見惚れる。 窒息するかと思うような、永遠に思える一瞬を経て、古泉がふわりと笑った。見慣れた笑顔、仮面の笑顔。けれど、向けられると安心感が込み上げてくる。みくるは安堵の溜息を漏らし、肩に力が入っていたのを脱力して初めて知った。 「分かりました。後日受け取りますね」 古泉が一礼し、踵を返す。後姿の制服の左肩がやけに濡れていた。理由など考えるまでもなかった。みくるは古泉の右側にずっといた。男ものの傘とは言え、二人で入るには少々狭い傘では凌ぎ切れない。だから、古泉はみくるが濡れないようにみくるの方に大きく傘を傾けてずっと歩いていたのだ。転ぶ前も、転んだ後も。 「古泉くんっ!」 どうしようもなくなって叫んだ。何を言うかなど考えてもいなかった。古泉が不思議そうな顔で振り返る。傘の縁から大粒の水滴が滴った。 「どうして、そんなに優しいんです、か……?」 易々と零れようとする涙を、眉を寄せて押し留めながらみくるは言った。真っ白な頭の中、ただその疑問だけが渦巻いていた。古泉がみくるに優しくする理由などどこにも見つからない。何か裏があるのではとさえ思う。 傘の下で古泉が暫し瞠目した。みくるは今更のように古泉が整った顔立ちであることに気付いた。 端正な唇が動く。 「あのひとが大切にするものは、僕も大切にしようと思うんです」 みくるは動けない。涙は身体のどこかに落ちて眉間にしわを寄せずとも零れる心配はなくなった。返答ができない。否、すべきでないかもしれない。あのひとが誰か、などと野暮な疑問は起こさない。決まっている。決まっていた。右手が、そのひとが使う筈だったハンカチを握る。 「それだけですよ」 古泉が笑った。詳しく古泉を知っているわけではないのに、みくるは本能的にその笑顔が本音に近い部分を反映しているに違いないと感じた。傘の影が落ちて翳りのように見えたからだろうか。確かめる術を持てないまま、古泉が再び背中を向け、土砂降りに身を隠す。みくるは動けない。 ふと、右手を見た。みくるが握り締めたせいでくしゃくしゃに丸まった群青のハンカチが中途半端に湿っていた。もう一度握り締める。滲み出る水と共に、ハンカチ一枚に篭められた彼の苦労や思いが手の内側に溜まる気がした。 ますます強まる雨の中、古泉の背中はもう見えない。 |