腕の水槽に 「 」 殆ど突き飛ばすような形で振り解かれた両腕を、古泉はいつものように薄く笑いながら見つめた。一瞬前まで古泉の腕は狭くて薄い水槽だったけれど、涼宮ハルヒは決して魚ではなかったので、水に閉じ込められてしまえば呼吸を奪われてしまうからして、随分と強引に水槽の壁を破ってしまったのだった。 ハルヒは古泉の片腕を半径にした円から外れた場所から見つめていた。身体中が水浸しでその寒さに震えて、浅い呼吸を何度も何度も繰り返している。散ってしまった水の飛沫の一つ一つすら辿れそうだ。この表情のハルヒはかつて覚えがないので、古泉はそれだけで思いのほか満足をしてしまう。 ハルヒがゆっくりと瞬きをしたので、古泉は口角をもう少しだけ上げて応えた。彼女がそんなものを要しているわけではないのを分かっていて、古泉は初めて要求を無視した。驚くほどの爽快を味わう自分の予想外の小ささを若干残念に思う。 「古泉、くん?」 くっきりと浮き出た声でハルヒが呼びかけた。緩慢な疑問形は混乱だ。夏の夜風が古泉の水槽を乾かしていく。完全なる乾燥が時効だと言い聞かせると、みるみるうちにことの真実味が失せていった。涼宮ハルヒはどんな姿であっても絶対に情けない声は出さない。 「な、何……どうしたの?」 ハルヒの瞳は正直過ぎるところがいけない長所だ。今、見たことのないような深い色をしているのは、当然のようにこんな目に古泉の姿が捉えられたことがないからだ。彼女の平和に自分が不可欠である自負や傲慢は少なからずあって、(機関の下っ端には成り下がらない、)それを否定する準備ができないままにこうして折られてしまった。収穫だと思う。 温い風がどうと吹き込んでハルヒの髪を巻き上げた。汗がすっかり引いても皮膚は暑いままだ。無意識の動きだろうか、ハルヒの手の平は先ほど古泉の水槽にぶつかったところを覆っている。 「……本気、なの?」 聡くて馬鹿な少女だと思う。もう腹を括ってしまったハルヒは既に水滴を垂らしていたことを忘れて、揺るがない面持ちを得ている。(その顔が好き)これは、結構、確かな本音である。水分を掴めない手先がいい加減寂しいので、古泉はそっと目を伏せて小さく俯いて深呼吸をした。喉を下る空気はやっぱり乾いている。 「すみません、罰ゲームだったんです」 「褒美も罰もないゲームなんてつまらないですから、僕と彼とで、ある折に、罰ゲームを掲げてちょっとした賭けをしたんです」 ハルヒの顔色が一つも変わらないことが、ちょっとした不安を古泉に咲かせる。本当にいつまでも見ていたくなる。夜に生まれる影は輪郭をよく見せてくれるので、より際立つ線を焼き付けてみる。 「負けた方は僕で、罰ゲームはあなたに告白をする、でした」 勿論のこと、古泉は彼との間にそのような事実を持っていない。簡潔さに特化したらしくない説明は畏れだ。この数秒間の間の映像の中の少女を、古泉は忘れたくなくて仕方ない。 「性質の悪い罰ゲームね」 ハルヒはとうとう表情も口調も変えなかった。殴られることまでシミュレートしていた古泉などとうの昔に見破っていたように、ハルヒは水槽を蹴破った後の距離のまま乾いた溜息をついて、颯爽と踵を返す。気流が遅れて狭い背中を追いかける。 「古泉くんの普段の働きに免じて許してあげるわ、でも、」 ハルヒの顔が見えないことが悔しく古泉の胸を衝く。どうせあと数日もしたら、記憶も成長もなかったことになるけれど、だから古泉はそれ以上彼女を追いかけようとはどうしても思えなかった。 「次は、ないからね」 ハルヒは別段怒っているわけではない。苛立ちはあるかもしれないから、携帯電話には注意を注いでおく。焦燥は、嫌悪は、動揺は、好意は、あったのだろうか。神のみぞ知るわけがない。神の存在もハルヒの認知も及ばない。 かつかつとサンダルを鳴らせて夜の影にあっという間に身を溶かしてしまったハルヒの足許に点々と連なる水槽の名残を眺めながら、古泉は笑顔を崩さない。 「I love you」 (役不足) |