戻らない夕日


「ねえ、古泉くんのこと、一樹って呼んでいいかしら」
平たく伸びて切り込んでくる夕日が彼女の黒い長髪の一端を舐め上げているのは、なかなかどうして普段起こらない美意識をくすぐられる光景である。見事に整った目鼻立ちは勿論正面からでも味わい深いものだけれど、古泉一樹が最も好ましく感じるのは斜めからこっそりと覗く横顔で、それはつまるところ常なる彼の視界そのものだった。
「構いませんよ」
突拍子のない発言こそが日常だったから古泉は特別驚きもしなかったけれど、その申し出に抱いた違和にすぐに気づくこともできないでいるまま答える。舌は面白いように滑らかだ。始めはそれを大切な義務だと思っていたけれど、次第に権利を行使した結果なのだと思うようになって、今はその二つの思考がしきりに右往左往している。
「じゃあ、」
細い首がぐるんと振り向いて、なびく髪の上を夕日の切っ先が駆けていったのを古泉は決して見逃さない。ハルヒは言葉を溜めるのがとても上手だった。魅力的な喋り方ができる人なのだ。そうして、古泉はそれを嫌がらずに待てる人なのである。
「あたしのことは、ハルヒって呼んで」
僅かな躊躇いは沈黙の長さに現れた。古泉は漸く肌の涼しくなる違和の正体を見つける。ハルヒはいつだって両手の半径に足る話なんてしないのだ。
(彼女の安寧は僕のそれに重なり合う)
「……わかりました」
拒否する理由がないという建前の背後に必死に隠れる得体の知れない義務感に春先から古泉はずっと苛まれ続けていた。権利だと言い聞かせてもいた。元凶たる彼女の側に寄り添う形でしか解消の方法を見いだせないなんて何と恐ろしく不毛な話だろう。自分は真実この少女に恋情を抱いていないのではないかと疑う一方で、古泉一樹はどうしても涼宮ハルヒの側を離れられない。彼女の存在しない明日の静謐なる美しさだけは理解しているけれど、美しさは同時に畏怖を与える対象なのであった。
ハルヒはその逆光に瞳を沈ませて暫く古泉を見つめた。夕日にはいつよりも陰の濃さを思い知らされる心地がする。春を近づける風が細く長髪を揺らした。ハルヒの髪は、赦されたことはないけれど、時折指の間に通してみたくなるような驚くほど繊細な動きを見せる。持ち主の扱いに逆らうように。
「一樹、」
「はい、」
「キスして」
今度こそ、決定的に、躊躇いを悟られてしまったに違いなかった。狼狽する一方、その躊躇いを知られることなど些末に感じられるに違いない深さまで実のところこの少女にはずっと前から見えているのではないかという強迫観念にも似た震えが指先を伝う。その想像が思ったよりも現実味を帯びている証明は、涼宮ハルヒの強い双眸だった。
一歩だけ近付いた。らしからぬことを咎める声すら震えそうで、一言だって喉から漏らすことはできない。女性として魅力的だと思う。だから付き合っている。落ちかけの夕日は痛いほど首筋を焼いて痕がついてしまいそうだ。
古泉が埋められない幅をハルヒは軽々と飛び越えて、睫毛の流れの一つ一つを追うようにじっくりと眺め合った。陰に沈みこんでも間近で見ても美しく気高い生き物であることに変わりはない。肺が縮まったまま戻らない。
「一樹は、あたしのことなんて好きじゃないのね」
少女の拗ねた言い種というには、ハルヒの声音は滔々と読み上げるように水平を保っていた。最早悟られたか否かの問題には及ばず手の施しようがなく、こめかみの血管のさあと蒼くなる音に驚いた喉が切れ切れに声をひねり出す。
「す、涼宮、さ、」
違います、の一言がどうしても言えない。閻魔大王すら凌駕するその黒目が一度だけ光ったように見えて(この陰にはどこからも光が差さない筈なのに)、どこまでも柔らかそうな唇がゆっくりと発音した。
「うそつき」
人肌の温さが唇をたてに縫い止めた。その指が果たしてハルヒの右手のものなのか、左のものなのか、そういった判断力すら焦燥に流されて失せていく。悟る。終わってしまう物語を。彼女の瞳の内側を。
静かな風が身体を抱き込んだ。古泉に最も近付いている生き物は生き物ではない振りをして、古泉は恐らくこの世界を望んでいたに違いないのにやはり恐ろしくて仕方がない。生き物ではないハルヒは変わらずに美しく気高い波をまとい、ゆっくりと瞬きをした。古泉はただハルヒの右なのか左なのか分からない指に言葉を遮られたまま瞬きを返した。(言葉を用いない会話が僕達の間に成立したことはあったのだろうか)(……愚問だ)
睫毛の端まで漲る涼宮ハルヒの気配を世界に取り戻したかった。
「あたしのこと、ハルヒって呼んでって言ったじゃない」
水平に滑らせた声が続けて、僅かに見える口角が緩んでいた。今一度近付いた視線を慎重に重ね合わせてみる。涼宮ハルヒは涼宮ハルヒという生き物として古泉のすぐ側にその両足で紛れもなく立っている。光ったように見えた瞳も、ただ陰の中に少しだけ蒼褪めて前髪をくたびれさせた古泉を閉じ込めていた。そのときになって漸く古泉は赦されたことを理解した。肺が膨らむ。ハルヒ。ハルヒ。閉ざされた唇から名前が溢れ出てしまいそうだ。
彼女の右なのか左なのか分からない手を払いのけて、こぼれ出る名前の切れ端にも構わず古泉はその緩んだ唇に喜びと痛みを押し付けた。手のひらで初めて触れる背筋は堅くしなやかで、燃える波が行き交っている。気を抜けば燃やし尽くされてしまうだろう。構わない。ハルヒ、ハルヒ。
「……ハルヒ、」
やっと音に託せた名前を痺れる唇に送ってみる。こんなに軽やかな味を知ってしまったらもう戻れない。制服の背中が少し窮屈になって、彼女の――右でも左でもどちらでもいい――指が今どこにあるのかを知る。彼女も自分も感傷の海に溺れてしまいたくなはないのに。温い唾を飲み込んで、古泉は腕に力をこめた。
「一樹は、……ううん、何でもない」
珍しくハルヒが言い淀んだけれど、古泉はもうどちらでも良かった。確かな痛みを手に入れて、やっと呼吸が見つけられたのだ。きっと、こういうのを酷い男と呼ぶのだろう。凪を超えた風が頬を切り裂くように横切って、手の甲にぶつかるハルヒの髪は鎧のように堅い。
「すきだ」
「そう、」
「ハルヒ」
「……一樹」
とぷん、と海の向こうに日の落ちる音がして、尚漂い続ける残滓が抱き締め方を知らない二人を囲っている。戻るつもりはないけれど、一抹の後悔をハルヒの寂しそうな背中に回して、一緒に腕に閉じ込める。死んだら土なり海なりに還ってしまうだけなのだから。
(ハルヒ、ハルヒ)







消失放映以前から溜めていたもの。
古泉に、ハルヒ、って呼ばせたい。呼ばせてやりたい。呼び捨てさせてやりたい。どっちの意味でも。
10/04/11