もうやめよう もうやめよう、という弱みを唇のすぐ側にしまいこんでいるハルヒの少しだけ彼女らしからぬ(或いは、古泉自身の)汗でぬれた手を引いて、古泉は走り続けていた。空いている右手の内側が痺れて、けれどそこに炎よりも生々しい赤い痛みを宿さないわけにはいかないのだ。(僕の仕事だろう)(そうなのだろう?) 向かう道は灰色の海に落ちていて、隙間だらけの風に揺れる街路樹さえも死んでいる。頬を撫でて鼻腔に忍び込む甘い死臭は何よりも強い麻薬で、互いの舌の根までくまなく痺れさせた。あらゆる音が省略された中で、どちらともわからない喉から漏れる空気の擦れる音が酷く心細い。たぶん、この世でまだ呼吸をおぼえているのは、古泉一樹と、涼宮ハルヒと、そうして青い神様だった。 「、古泉くん、」 「なんですか」 か細い声がたまらなくて、古泉は荒れる息に混ぜて乱暴に返した。靴の裏で噛みしめるこの世界に慣れ親しんでいるのは彼女も同様だ。認めないとは言わせない。ハルヒの尻込みは恐怖でも驚愕でもないのだ。(僕の仕事だろう)(そうなのだろう?) 砂山が崩れるようなうなりが渦巻いて、目の前で大きな灰の砂埃が背の高さを越えて湧き、間に太く青い腕を見た。つるりと透ける表皮が灰色に呑まれた景色の中でぼんやりと発光をくゆらせながら、ぬらぬらと生気に満ちた液体にぬれている。生き物。狙いはハルヒだ。 (神様!) 右手が爆ぜてじまいそうなくらい興奮して、目の端が赤く滲む。ハルヒの声が耳朶にぶつかって跳ねた。振り上がる古泉の二の腕を弱く掻いてこぼれていくハルヒの爪はきっと忌まわしいほどうつくしく、力一杯握り締めたい衝動を左から身体を通して右の手のひらに落とし、古泉はその腕をひと思いに振り下げる。すると、勢いに乗った真っ赤な痛みは生き物のように全身にざわめきを伝わせて飛び、そのまま青い腕を簡単に打ち砕いてしまった。 青い神様は、おお、おおお、と泣いた。 左の手のひらの内側で、ハルヒの指が老いるように縮んで、それから古泉にふらふらと寄りかかる。彼女の叫びは実のところ鼓膜の奥まできちんと揺らしていたけれど、この灰に満ちた街においてもはや古泉にも彼女に関する正しさがつかめないのだ。ハルヒの腕を引っ張って再び走る。どうにも道は煙くていけなかった。後ろで噎せる振動が伝わって、古泉は足を緩めない。立ち止まったら、青い生き物に追いつかれて、ハルヒはきっと食べられてしまう。 「こいずみ、くん、」 空が轟いて神様の嘆きが降り積もる。いっそ真っ暗であれば夜明けを待てたのに、灰色にはどこを望めば良いのだろう。行き先が見つからない。彼が隣にいたときのハルヒは可能性の塊だったけれど、ハルヒはここでは神様にはなれないのだ。 「もうやめよう」 青い足が行く手を阻む。そろそろ目が見えなくなってきた。振り上げる右手に冷めた身体がかぶさって、古泉はそうっと振り返る。そうして、砂糖の山が崩れるように、しまった、と思う。 「もうやめよう」 |