カナリアイエローの憤り


「別れましょう」
ハルヒが口元から紙コップを下ろすと、中でカナリアイエローの液体が跳ねて氷がぶつかる高い音がして、それはキィンと古泉の胸の奥まで届いた。衣替えを終えたブレザーの袖の重みに対して、何と涼しげな色だろう。チェーン店のカフェは光陽園の詰め襟とブレザーには酷く似合って、落ちついた色合いがひしめいていた。
「どういうことかしら」
湿った唇がつやつやと光って、古泉は傾げられたその顎のあたりを見ていた。断るという行為の末恐ろしいことだ。一体全体どれだけの思いやりを踏みにじり、いくつの好意を手放すことになるのだろう。けれども、金輪際これが最後なのだと思えば、途端にハルヒのダイヤのように硬い瞳は世界に溢れかえる鉱物のうちの一つに戻ってしまうのだった。
「そのままの意味ですよ」
口角を柔らかく上げるのが難しくなって久しい。目を細めて濁しながら、古泉は続けた。
「僕は再三申し上げた通りごく一般的な高校生です。地球の征服を企む宇宙人でもなければ、後ろ暗い組織を背後に控えた諜報員でもありません。残念ながら、涼宮さんのご期待に添えることはないでしょう」
「ええ、そうみたいね」
ハルヒの舌までダイヤになってしまったようだった。まるで平坦な声音は素直な直線を引いて古泉の身体にどんどんと沁みこんでいく。恐いものは何もない。
「ですから、どのような形にしろ、これ以上僕と関係を続けていても涼宮さんに利益が生じるとは考えられないのです。むしろ僕と関わる時間を割くことで、涼宮さんの目的を遂行する時間を奪われる。涼宮さんに損が生じてしまうのは僕としては心苦しいのです」
触れることを許されない唇が引き結ばれて、丸みを帯びた顎から古泉は徐々に視線を上げていく。ハルヒの黒い髪も黒い瞳も濁されることのなく深い光を帯びている。雑誌の中にいるような美しい人というのは存外にいるものなのだとこの歳で知っても良い贅沢なのか。彼女の隣を独占していることに誇りを持つことは同時に浅ましさへの恥を催す。(涼宮さんに嫌われたくない)
「だから、別れようっていうこと、」
「ええ、非常に残念ですが、これからのことを考えての、僕の結論です」
精緻なパーツで整えられた顔はまるで動かず、ハルヒの右手が紙コップを握り直した。静かな幕引きだ。店内を帯びる午後の熱が、徐々に冷まされていく。
「別れる、という言葉を使うと後ろ向きに思えますが、涼宮さんはあなたの自由でその素敵な好奇心を追いかけられる、良い機会だと前向きに捉えていただければと思います」
椅子を引きずる音がして、ハルヒがおもむろに立ち上がった。遅れて揺れる長い髪とカチューシャのリボンの躍動が止まらないうちに、古泉の視界はカナリアイエローに覆われる。瞼が冷えて前髪の上から崩れた正方形の氷が滑り落ち、高く鈍い音を立てて机に跳ねかえった。額から滑り落ちる一筋が首筋に流れ込んで思わず身震いをする。きっと空の紙コップの底をこちらに晒しているハルヒを見上げることもできず、古泉は今しがた自分にぶちまけられた液体が鋭い丸を散らしている机の上を茫然と見つめた。テーブルの木目の透ける水溜まりに、古泉の前髪から雫が滴り落ちる。
「いい加減にしなさいよ」
ハルヒの声が冷えた頭に降り注いで熱い。吐息の先端が突き刺さるようだ。周りの席がひそひそと二人を取り巻いている。
「勝手なことばかり言って」
最低。
舌の上で転がされるように出し惜しまれたその言葉を、それでも古泉は拾い上げる。鼻筋を伝う液体から立ちのぼるにおいで、ハルヒの唇を濡らしているのがマンゴージュースであることを今更のように知る。二人は頼んだ飲み物についての会話などしない。必要ないから。細い糸の千切れるようなかすかな音を立てて、古泉の濡れそぼった頭からはカナリアイエローが垂れ続けている。
硬質で上品な足音を立てて、ハルヒが遠ざかっていく。また間違えてしまったのだろう。どうすれば彼女を春の陽気に照らせるのだろう。迫りくる冬の波にハルヒの黒いつむじが呑まれていった先に、また同じ春が来るなどと、どうして信じられよう。止まり木にもなれない古泉には、そのうつくしいさえずりを耳にすることだって許されないのではないか。最低と突き放されたのは、或いは目的を果たしたことになるのだろうか。こんな筈でもなかった。
カナリアイエローは古泉の身体にじっくりと沁み込んで、たまらなく酸いにおいを放ち続けている。







「となりの怪物くん」で飲み物ぶっかけ合うシーンにすげーいいなーって思ってしまって。
もはや別れられなくなっちゃってる消失の二人がいい。
12/10/26