※2009年3月辺りから4月辺りのWJをさらっとネタバレしてます。 怠惰と空腹 乾いた唇はなかなか水を受け付けなかったけれど、日頃の恨みも込めて無理矢理押し流すとこぼさずに消えたからどうにか呑んだらしかった。深い切れ込みのようなその口腔をそっと押し開くと、丁寧に磨かれた象牙に似た歯が並んでいて、けれどそれも唇同様まるで乾いているのだった。かつて青々とぬめる謎を絡ませ噛み砕いた欲深い牙達が知らん顔をして行儀良く収まっているのを、暫くどうすることもなくじっと見つめた。 そうして調子に乗って顔面に触っていたことにやっと気付いたとき、危機に備えた頭皮は覚えのある感覚にむずむずと落ち着きなく騒いだけれど、遂にその大きな手の平が頭を呑みこむように包むこともやはりなかった。信じられないことに、魔人の昏睡状態は半ば事務所の日常に組み込まれ始めていた。だから、待ち焦がれているわけではないのに、欠けてしまった可能性について、弥子は溜息をついて向かいのソファに腰掛けては妄想するのだった。 銃弾に穿たれても、心臓を貫かれても、おびただしい血痕をまとっていても、暫くすれば当たり前のように事務所の机に足を組んでどこまでもサディズムを匂わせた笑みを浮かべていたから、今度もそうなのではないかという期待は少なからずある。それが脳噛ネウロという魔人で、ネウロの持ち得る魔力とやらだ。 けれど、目の前に不気味に寝顔を晒すネウロの額に散らばっているのは、欲と生気に満ち溢れた魔界の光沢を見せる黒髪ではなくて、だらしなく色の抜けてしまった、代わり映えのない前髪だった。魔力を溜めていたという独特の髪飾りも使い切ってしまって、餌場を確保しても食べに行けないのでは本末転倒ではないか。 「馬鹿、じゃん」 声に出して呟いたのも、期待の一部だった。けれど、魔人は示し合わせたようにやはり瞼すら動かさない。死んではいないのだ。あまり見たことがなかったけれどこれは明らかな寝顔であるし、死人特有のすっかり抜け落ちて縮んでしまった色ではない。 ――死人。死ぬのだろうか、魔人でも。 ――そもそも、人ではなかった筈だ。 致命傷を負っても瞬く間に治ったこの魔人について、弥子は考え続ける。目の前に横たわるものを、弥子はもはや魔人と呼べないでいる。力なくソファに置かれ、弥子のなすがままに水を呑み、毛布までかけられて、触られて、しかし結局何もしない。食欲が胃袋の底で毒液を吐きながら疼いている筈なのに、怠惰に転がっているだけだ。謎を食べない魔人は、魔人ではない。 「お腹すかない? ネウロ」 勿論のこと、返答はない。もう数日間、弥子がたまに運ぶ水や茶やその他飲み物だけでネウロの生命活動は食いつながれている。傀儡の自分の存在なしでは存在の線すら曖昧なこの生き物は、もはや謎も食べ物も必要とすることができなくなっているのだろうか。あの森の中で衒いもなく別れを告げたとき、その存在は死よりも確かに失われたのかもしれなかったけれど、こずるい自分は人に縋って無理矢理拾ってしまった。それこそが現在の弥子の動機なのかもしれないけれど、細かいことを感じる前に弥子は事務所から離れるという選択肢を捨てていた。 ――何なら、食べてくれるのだろう。 立ち上がって手を伸ばし、もう一度唇に指先を滑らせた。最低限の潤いを見せたそこを中指でそっと押し上げ、滑り込ませる。粘膜の指の腹に吸い付く感覚は驚くほど人のそれに似ていて、弥子は唐突に空恐ろしくなってしまった。 牙の表面に指を滑らせてなぞる。彼を魔人たらしめる所以は美しい歯並びも数えられる。顎は動かせないから、なぞるだけ。 「食べて、いいよ」 生唾を呑み込んだ。絶対に困ることを言ってしまった。期待はかわいそうなくらい大きかった。噛み砕かれてしまうのならそれはそれでいい、と薄暗い頭で言い聞かせた。本当は死ぬほど嫌だったけれど、そうならなくなった可能性から引き出される一つの妄想が、弥子を酷く逆撫でしていた。 案の定、起きない。 薄笑いと溜息を吐いて、弥子はあっさりと魔人の唇から手を引いた。辛うじて吸い付いた唾液が情けなく指先を温めていた。馬鹿らしいと思う。この魔人さえいなければ、という可能性への思考はしない決まりだったけれど、そう約束をつけたネウロに誘発されるのはそれに堪らなく近い感情だ。 「お腹すいた、なあ……」 癖で呟いた。喋る者のいない事務所は空腹を抱き続けている。壁に埋まった三つ編みは死人らしく黙っている。弥子は怖がっている。魔人と呼べない魔人を何と呼ぶのか、怖がっている。ネウロは眠っている。死ぬためでも生きるためでもなく、眠っている。 空腹なのに、食べようとしない、昼下がり。 |