やさしい、いいひと まなかは瞳に海を湛えている。汐鹿生から見上げる海面を映したような海の人の瞳の色の美しさはよく詠われる文句だけれど、ことにまなかの瞳に海を見るのは、その大きく丸く開かれたおもてからみるみるうちに大粒の雫があふれてやまないからだ。枯れるところを知らない豊穣の海は、ちさきと揃いで買ったキーホルダーをなくしたことをひどく怒られて、ぼろぼろと雫を本物の海に溶かしていた。要は俯くうなじの隣に並んで、彼女の海に長い髪が巻き込まれないようにそっとかき上げてやった。丁度海流が流れ込んできてふたりの前髪を舞いあげ、誰も遊ばないブランコの鎖を軋ませる。 「昨日はまだあったんだよね?」 「うっ……うん……ひくっ」 「朝はあった? 家で見た?」 「わからない……でも、あったとおもう……うくっ」 海面をくぐってかもめの声が流れてくる。小さな魚の鱗が水をさばき、まなかと要の前を足早によぎる。きっとしょっぱいのだ。まなかがあんまり泣いているから。要は髪をかき上げた手をそのまままなかの少し熱い背に回して、柔らかくとんとんと叩いた。 「なら、やっぱり学校で落としたのかもしれないね。みんなで探せばすぐ見つかるよ」 「でも……」 「ん?」 まなかがよろよろと顔を上げ、要をちらりと見てすぐそらす。海に溶ける前の涙が目尻に張りついて震えている。やはりまなかの瞳にはこの汐鹿生とはちがう海が宿っている。 「ちーちゃんもひーくんも怒らせちゃったもん……」 「ちさきは頑固だから一度怒ると自分からなかなか謝れないんだよ。まなかがきっかけをつくってくれれば、すぐ仲直りできるよ」 制服越しの背骨の硬さに気づかないように、要はまなかの背を軽やかにきざみ続けた。(ちさきの背骨はかたいだろうか)不真面目な懸想はえなの内側に隠しておく。 「でも、ひーくん……」 「ああ、光はね」 言ってしまいたいのは男の友情のためにこらえる。優しく叩いて宥めるだけのてのひらに少しの力をこめて押すだけでまなかの背中は前に出て、要はちさきを手に入れることができるのかもしれないけれど、それは要のほしいちさきとは少しちがうものだということも要は知っている。 「光はまなかが泣くとどうすればいいのかわからなくて困っちゃうんだよ。困ってるのがはずかしいから、怒っちゃうだけ」 「そうなの?」 まなかが顔を傾けて、要を覗いた。まなかの海から新たにあふれる雫はもうないようだった。さらさらとかき上げたはずの髪がこぼれる。 「そうじゃないかな」 「ほんとに?」 身を乗り出すまなかに、要は笑みを含んだ目線を返した。 「ぼくはそう思うけどね」 「じゃあ……じゃあ、どうすればいいかな?」 「そうだねえ」 背に回した手をゆっくりと引いて、要はまなかのまつ毛を重たく濡らすまなかの海たちを指先でそっとはじいた。まなかは要の指の動きを読んで、瞼を交互に閉じる。 「涙を拭いて、光とちさきに謝って、いっしょに探してくれるよう、お願いしよう。僕もいっしょにお願いするよ」 はじけた涙はあっという間に海に溶けていき、まなかのとがった唇も徐々にまろやかな笑みに変わった。要もつられて微笑んでしまう。まなかの笑顔は四人の特別で、これにほだされない者はひとりもいない。 「……うん!」 まなかが深く頷いてぬくみ雪を跳ねながら立ち上がり、「よし! 絶対みつけるぞー!」と腕を振り上げた。要も遅れて立ち上がると、まなかが振り上げた手を下げて後ろで組んで振り返った。遅れてぬくみ雪がちらちらと舞う。 「要、ありがとう! わたし、ふたりに謝ってお願いする!」 「どういたしまして」 ふたりで肩を並べて公園を出る。まなかは目もとの赤みを少しでもなおそうとなでたりこすったりもんだりを繰り返し、ふと思いついたようにつぶやいた。 「要はすごいね」 「そうかな」 「すごいよ、うん、すごい」 まなかの耳元で髪飾りがわずかな海流をとらえて震える。 「ひーくんのこともちーちゃんのこともわたしのこともよくわかってて、それから、わたしが泣いてなにもできなくても、すごくやさしいもん」 まなかの瞳が海の上の遠い陽を捉えて、くるりと円を描いて光った。その透き通る青なのか白なのかそれとも別の色のなにかなのか、要には時折眩しく感ぜられる。 「やさしいかな?」 「うん、要はやさしい、いいひとだよ」 「そうだとうれしいな」 案内標識の脇にばつが悪そうにたたずむ影を先に見つけるのはいつだってまなかだ。「ひーくん!」熱い背中が跳ねて、細い手足が海水を切っていく。自分はまなかの後ろ姿ばかり見ている気がする、そう感じるときに隣でまるで鏡のように切なくまなじりを下げているちさきの手をとりたいと願っている。まなかの言うように要がやさしいのだとすれば、それはちさきのためだった。ちさきが、切なく顔を歪めながらも、あたたかな瞳でまなかを、その向こうの光を見つめ続けている限り、要はやさしい、いいひとになる。 (やさしい、いいひとって、よくあるフラレ文句じゃなかったっけ) |