バレなきゃいいんだ


「比良平って、何カップ?」
冷めた食べ物のにおいが教室を満たして、初夏の太陽は寒冷化に押されながらも白々と窓の外にのぼっていた。まだ高校生になったばかりの昼休みは春の落ちつきのない空気を引きずっている。衣替えをしたばかりの制服のシャツの強ばりが肩にまとわりつくのがうっとうしいのは、紡の目の前で購買のパンをくわえながら目尻をいやらしく下げる同じクラスの男子生徒のせいなのかもしれなかった。
「……知らない」
「何が」ととぼけたところで逃れられないだろうことは察せられて、紡は弁当箱を広げかけた手を止めた。今朝食事当番だったちさきの包んだ弁当を見られるのはまずいような気がしたのだ。
「え?  一緒に住んでるって聞いたけど」
「知らないものは知らない」
本当のことだ。会話の切れはしを耳敏く掴んだ他の男子生徒が数人集まってくる。顔に覚えがないので、よその中学から上がってきた者ばかりなのだろう。
「もんだことは?」
「あるわけないだろう」
「もしかして、付き合ってない?」
「ない」
どっと、好奇に満ちた笑いが湧いた。「まじかよ」「よっしゃ」「エロマンガみてぇ」「うらやま」口々に挟まれる言葉が腹にちくちくと刺さる。隣のクラスでちさきもこんな視線に晒されているのかもしれない。紡は弁当箱を片付けて席を立つ。火で少しずつ炙られるようにせりあがるこの不快感からちさきを完全に守る術はなく、紡にできることは、彼らとこれ以上会話を続けないことだけだった。紡の不快を察して何人かの男子生徒はつまらなそうに身を引く。
「おい、ノリわりぃな。付き合ってねぇなら別にいいじゃん」
はじめに声をかけてきた男子生徒が紡に追いすがった。まだ入学したばかりの学校で、知らない場所もある。外で食べるのも悪くないだろう。紡はずんずんと進む。
「一緒に住んでて下着も見てないとかおまえすげーな」
(おまえになにがわかる)肋骨の内側がちりちりと焼けて、(邪推されるのは予想できた)頭の後ろの冷たい部分が痛んだ。
「別に。ちょっと用事あるからまた」
「あっ待てよ」
男子生徒が紡と肩を並べてくる。教室の引き戸に手をかけたとき、男子生徒が紡の肩をつかんで耳元に口を寄せた。
「洗濯物とか、こっそり確かめてみろよ。ブラのタグにかいてあるから」
午後のあまったるい縁側に置かれたカゴからこぼれていた見知らぬ布。風呂上がりのTシャツに透ける肩ひも。来たばかりの頃、ちさきは自分の私物を祖父の財布から新調することを極度に遠慮していて、紡や祖父のお下がりのシャツののびたえりぐりから紡は何度も目をそらした。それでも体の形は到底ごまかせず、祖父には紡の目線を見破られていたかもしれなかった。
「みんな姉ちゃんのとかこっそり見てるもんだぜ。好きかどうかとかカンケーねーし、男ならフツーフツー」
耳の奥で波音が騒いで、冷たく紡を制した筈の頭の後ろまで流されそうだった。引き戸にかかる手に力をこめて、紡は男子生徒を振り払った。左手に抱えた弁当箱が疼くような気がした。誘惑が後頭部から追いうちをかける。
「見るだけならバレねぇよ」


カラカラと引き戸を開けると、がらんとした玄関にサンダルが転がっていた。先に帰っていたちさきは夕飯の買い出しに行っているらしかった。祖父は網を見にでも行っているのだろう。昼休みからまるでひかない冷たい汗がじっとりと肌にまとわりついているのが気持ち悪くて、紡は鞄を置いてシャツのぼたんを外しながら洗面所に向かう。今は「歩きながら脱がないの!」と叱るちさきもいないので、シャツの下のインナーもまとめて脱いだ。そのまま洗面所の入り口から洗濯機に丸まったそれらを放り込もうとして、手が止まった。
まるであつらえたように、きっと先ほどまでちさきが身につけていたそれは、洗濯物のカゴに引っかかっていた。花やリボンのあしらわれた白のような淡い青のようなそれは、当たり前のようにそこにいて、馬鹿馬鹿しい発想ではあるけれど、紡を待っていたようにすら思えた。波の音が特別によく響いているような気がした。
静寂であればあるほど、耳の内側からも波の音が押し寄せる。サヤマートは決して近くはない。今は遠くの方にも網を張っているから、祖父が様子を見に行くのも時間がかかる。玄関で音がしたらすぐ返せばいい。冷静な打算が胸の内をとんとんと叩いて積み上がり、僅かに残っていた冷たい部分を浸食していく。そのくせ、思考を超えて伸びていく指は初夏に入ろうというのにひどく冷えて、まだちさきの温度が残っているように感じられるそれにふれると幾分かこわばりがやわらいだ。
――見るだけならバレねぇよ。
バレないのは、見ることだろうか。それとも、結局はあの男子生徒と同じ穴のむじなであるにすぎない、ひどく呆れた自分のことだろうか。
あっけなく手にとったそれは想像よりも硬く厚みがある。裏返すとタグはすぐに見つかった。
波に飲み込まれてしまう。水の中にいるように、心臓の音が、体の中の音が、じかに響いてくる。
薄暗がりの中で華奢な鎖骨の上をえなの輝きが走り、夢のようになめらかな肌が広がる。そういえば、転びかけたちさきを抱きとめたことがあった。腕に寄りかかったやわらかくぬくい感触が甦るようだった。
「つむぐー! ごめん、しまうの手伝ってー!」
重そうな足音が、スニーカーが砂利を巻き込む音が、波の音を押しやった。驚くほど静かに手にとったものを洗濯カゴに戻すと、紡は縁側からサンダルをつっかけて玄関に向かった。直接肌を太陽に焼かれて初めて自分が上半身に何も身につけていないことに気付き、動揺を知る。両手に膨れたエコバッグを抱えたちさきがよろよろと近づいてくるので、両方ともその手から奪う。私服のシャツがつくる胸元の丸みを横目でなめずにはいられない。
「やだ、紡、なんか着てよ」
「悪い、着替えてた」
紡の格好を見て、ちさきはぎょっとして眉をしかめた。紡はちさきに背を向けて部屋に上がり、冷蔵庫の側にふたつの袋を並べた。
「んもー、それで歩き回らないでよね」
何も知らないちさきは遅れてスニーカーを脱ぎ捨てて、紡が運んだ袋の中身を片づけにかかる。手伝おうとすると、「服を着るのが先!」と追い返される。頭の後ろから冷たいものが体に広がって、紡はてきぱきと動き回るちさきに心の底から安堵した。そうして、少しも罪悪感を抱かなかった。(バレなきゃいいんだ)年を経るほどに少しずつ移りゆく紡を、ちさきに悟られないうちは側にいられる。もとよりちさきはにぶく、そして変化を恐れている。彼女が時間を止めようとする限り、紡もそれに従わないわけにはいかない。
いつか知られたとして、どんな風に軽蔑されるのだろうか。紡の上半身を見てもだらしないと眉を寄せるだけのちさきに、ちさきの体つきを丹念に眺めて笑うあの男子生徒と少しも変わらない呆れた自分を知られることだけが、今の紡にはひどく恐ろしい。







恋愛感情はおいといて、周囲に下品な話をするだけで楽しい年代の男の子がいっぱいいる環境にいる紡が、一つ屋根の下に一緒に暮らすナイスバディーな同級生のあれやこれやについてそそのかされて、つい魔が差してしまう瞬間はあったのではないかと思うのですよ。
それで、欲は欲として受け止めて、罪悪感はないだろうと思う。
14/05/07