この恋は生きるに値する 「あんたって、ほんっと、残酷」 けだるい重さがまとわりつく右肩を見やると、きれいな亜麻色のつむじと共にブレザーにじわじわと染みが広がっているのが見えて、げ、と思わず舌を出しそうになる。時を超えて思い続けた男の子の体と体、顔と顔が限りなく近い場所にあって、体温や息使いを交換できるような距離にあって、さゆの胸はびくともしなかった。はじめて手をにぎられたときの鼓動、はじめて抱きしめられたときの興奮なんて遠く忘れてしまいそうだ。遥か見上げていた優しくおおらかな要は、さゆの肩にうなだれて、失恋に心を砕かれて泣いているただの同い年の男の子だった。 「ほんと、今さら、何言ってんの」 「……ごめん」 染みがついたら嫌だな、と思いながらも、要を引きはがす気にはなれない。さゆだって知っている。好きなひとが自分に振り向くことのない、心臓に爪を立てられるような絶望。さすがに鼻水をつけられるのは嫌なので、左手で鞄を手繰り寄せてポケットティッシュを差し出す。情けない。男の子って、どうしてこう、すぐに泣くんだろう。受け取る手がふるえている。 放課後に図書室で勉強した帰り、寄り道をしよう、と言われたとき、要の伸びた前髪のつくる影に嫌な気持ちがした。紡の家の暗く軋む廊下がフラッシュバックする。授業の話、受験の話、クラスメイトの話、要とさゆが付き合い始めてから積み上げた他愛のないあれこれが交わされて、要の足の向く方にさゆは気付かないふりをしながら自然とついていく。これもデキる女のモテスキルだ。港のはずれにふたりですわりこんだそのとき、要の頭が静かに傾いで、海に落とすようにつぶやいた。 ――キス、してたんだ。 「そりゃキスくらいするよ、ダイガクセイだし、おとなだし、付き合ってるんだし」 「うん、そうだよね」 「紡さんもちさきさんも、久しぶりに会ったんでしょ?」 「ふたりとも、お互いに忙しかったからね」 そういうことではないのは知っているけれど、それならば何を言えばいいのだろう。要ですらも道筋を知らないから、肯定するほかないのだ。さゆはデキる女で両手に余るモテスキルを持っているけれど、隣で失恋に泣いている男の子の心を今すぐ癒してあげることはどうしたってできない。 さゆから受け取ったポケットティッシュを一枚出して、要は弱々しく鼻をかむ。海の底を見つめるように深くうつむいて、さゆの方をちっとも見ようとしない。しめったティッシュを握り締めて、要はぼやく。 「いつも、あんな風にしてるのかな」 「あんな風に、って?」 特に聞きたくないけれど、聞いてほしいのだろうと思ってさゆは聞き返した。髪に隠れた要の目がおとなのふたりを見つめている。 「台所でさ。ふたりとも、何も言ってないのに、目が合ったら、これからするのがわかってたみたいに、当然みたいにしたんだ。でも、当然みたいにしてるのに、こっそりしてるんだよ」 「ふうん、そういうものなんだ」 驚くほど乾いた声が出た。紡とちさきがどんな風に心と体の隙間を縮めているかなんて、結局さゆにはちっとも興味が湧かないことだった。そんな何でもないことで泣いてしまう要が心の底からかわいそうだった。さゆがその悲しみを全て拭ってしまえるなら、どんなに嬉しいことだろうか。 「付き合ったら、キスするのかな」 「そりゃ、そうだから、ふたりはしてたんでしょ」 堂々巡りだ。何言ってんの、とさゆが続ける間もなく要が顔を上げた。充血していても海色の瞳は澄んでいて、頬のえなの上を涙の痕がうっすらと踊っている。やっと顔が見られたと思った途端に背に回されている手に気付いて、心臓がさっと凍った。唇に要の吐息が届いて、近づいてくる額をさゆがとっさに押しのけると、要はびくりと肩を震わせて動きをとめた。さゆの背中を抱き込んでいた手がぱたんと落ちて、要はゆっくりとさゆから体を離していった。 「……ぼく、最低だね」 「ふうん、わかってるんだ」 凍った心臓が少しずつ動き出す。はじめてのキスを危うく蔑ろにされるところだったことよりも、要を愚かな行動にいたらしめるほど彼の胸を埋める十四年の濃さにさゆは参ってしまう。恋は何度刺しても簡単には死なない。要の中に残るそれらは普段は息をひそめているのに、突然後遺症のように飛び出して要をかき乱す。顔を少し背けるふりをしながら要を横目で見ると、驚いたことにまた涙を流していた。いつになったら泣きやむのだろう。 「ごめん」 「許さない」 「……ごめん」 かもめがすぐ側をよぎって、五時の音楽が曖昧な輪郭で鴛大師を包みこむ。夕方の海は肌寒くて、要との間に置かれた隙間が意識させられた。レディーからハンカチを差し出すなんてみっともなくて仕方がなかったけれど、泣き虫の男の子のためにはさゆが一肌脱いでやらないといけない。ポケットの中で出番を待っていたさゆのお気に入りのブルーのハンカチが要の目尻にふれると、要はひどく傷ついたような目でさゆを見つめ返した。 (あたしだって、傷ついたのに) でも、いくら傷ついても、恋のかなったさゆにこわいものはない。 「あーあ、せっかくのイケメンが台無し。要のいいところは顔なのに」 「……顔だけ?」 要の睫毛の上に乗る水滴がよく見える。ハンカチをにぎるさゆの手があたたかく濡れていく。 「そうだよ! 泣き虫で、重くて、めんどくさくて……いいところなんて、全然ない」 (全然ないけど、でも、) 「あはは、そうか……そうだよね」 口は笑っているのに顔はずっと泣いている。海のように溢れ出すそれを受け止めることができるのはさゆだけなのだ。近道はわからないし、特効薬も見つからないけれど、要の涙を知っているのはさゆ一人だけだった。飛ぶように過ぎた五年間と、海村の子供たちが次々に目覚めてから想いを伝えるまでの間、何度も刺し殺した恋心はその都度傷をまといながらも生き続けた。 この涙を独り占めできるだけでも、この恋は生きるに値する。(そうだ、要の恋だって) 「あんたの長所は顔と、かわいい彼女がいることなんだから、どっちも大事にしなきゃいけないんだよ」 「うん、その通りだ」 両目を往復するハンカチをさゆのてのひらごと要の手が包んだ。背もそれほど変わらない筈の要の指の大きさに、さゆは身動きができなくなる。 「さゆには恥ずかしいところばかり見られてる」 にぎられたまま下ろされた手が、要の手の体温を吸い取る。潮風でさゆの手はすっかり冷めていて、泣いていた要の体は熱を持っていた。さゆはそっと要の手の内側でてのひらを返して、にぎりかえした。 「みせてよ。あたし、こんなのへいきだから」 海の音がいつもより穏やかにとどろいて、波が寄せるように要が微笑んだ。 「うん、ありがとう、さゆ」 「今度、ちゃんとキスしよう」 「えっ」 「一回目はかっこわるいところを見せちゃったから、ちゃんとリベンジするよ」 「ふうん……まあいいけど」 ハンカチをはさんで手をにぎり合ったまま歩いているのは、恥ずかしいような気がする。少なくとも、知っている誰かには見られたくなくて、手を引かれながらもさゆは気が気でなかった。ふたりの関係のことは皆が知っているけれど、それとこれとは別なのだ。それとなく背後や脇道に目をやってしまう。 「さゆ、」 よそ見を咎められたように手を強く引っ張られる。要の吐息が届いて、さゆの前髪を浮かせる。あっと目を瞑った瞬間に額が熱くなって、さゆは頬と耳に瞬く間に血がのぼっていく音を聴いた。 「これは今日のおわびとお礼」 目と目がぶつかってしまいそうな場所で、要が夕日の残滓に頬を丸く縁取られて笑っていた。さっきまでまるで小さな男の子のようにぐずぐずと泣いていたのがうそのようで、さゆは思わず顔ごと目をそらした。その赤らんだ耳にまた要の吐息が触れた。 「ね、許してくれる?」 惚れた弱みの何とつらいことか。さゆの返事は、泣き虫の男の子と、夕日を追いやるように吹き始めた海風だけが、知っている。 |