「ゆまっちさー、結婚したいって考えたことある?」 気だるそうに頬杖を突きながら、黒衣の女は唐突に問う。 結婚願望 「ある」 対する遊馬崎は即答する。しかし、彼の脳髄のほぼ九割は彼の前に多く詰まれた同人誌やアニメ雑誌に向いており、狩沢のことを一片でも気にしている様子は全く見られない。狩沢の問いに対しても果たしてどの程度真剣に考えているのか。 「え、あんの?」 こちらが聞いた癖に、狩沢は意外そうな顔をして俯いて同人誌を読み耽る遊馬崎を振り返った。遊馬崎は相変わらず顔を上げない。安っぽい作りのカラオケボックス内は、適度に空調が聞いていて狩沢には少し生温い。 「ありますよ」 手短に答えた遊馬崎は少しうるさそうだった。狩沢は口を噤む。この手のものを読んでいるときに水を差されることの腹立たしさは、狩沢とて一人の立派なオタクである、充分理解している。 せめて気休めに、と目の前の同人誌を漁るが、どうにも気分が乗らない。狩沢の好みは雑食な方で、遊馬崎が好むような男性向けのものも、他のオタク仲間の女が好むような女性向けのものも、大抵何でも読む。だからこそ、遊馬崎とその手の店を回るのは楽しいし、広範囲の人間と話が合う。 だが、今目の前に積まれているどの二次元も、狩沢の心の憂さを晴らすには些か物足りなかった。 「ゆまっちー、」 「んー?」 何かと話しかけられるのをうるさいとは思っても、遊馬崎はきちんと厭わずに返事を返してくれる。とてもいい奴だと思う。 「一曲入れていー?」 「いっすよー」 歌ったところで、遊馬崎は狩沢の歌など聴かないに違いない。そうして放っておいてくれるその姿勢を狩沢は居心地が良いと思う。下手に耳を傾けられる方が、カラオケまで来て羽根を伸ばした意味がない。 ずず、と目の前に置いてある頼んだカフェオレを飲み、狩沢は検索機で手早く曲を探すと入力した。予約も何も入っていないテレビにはすぐに曲名や歌手名が映り、長いイントロが流れ始める。特に切羽詰って後ろに曲が入っているわけでもないので、狩沢は早送りせずにマイクを握って待つ。 歌い出しでいきなりとちった。今日は喉の調子が悪い。この部屋に入った最初の方は遊馬崎と共にいつも歌うアニソンを順々に入力して熱唱していたが、そのときから少し喉に絡むものを狩沢は感じていた。 調子が狂う、と狩沢は感じる。 何とか一番を歌い終えるが、それ以上気分が乗らなくなってきたので、演奏停止ボタンを押した。カフェオレをまた口に含み、小さく溜息をつく。駄目だ、今日の自分はテンションが低い。 「狩沢さん、」 「んー?」 横目で見ると、いつの間に読み終えたのか、遊馬崎がぼうっとした顔でこちらを見ていた。 「何かあったっすか?」 「何で?」 「だって普段そんなこと言わないじゃん」 遊馬崎の口調は少し不貞腐れているようだった。手にしていた同人誌をぱたんと閉じて山積みの上に置きながら、遊馬崎は言う。 「歌も張り合いないし、同人誌目の前にして溜息つく狩沢さんって変」 「あー、今日ちょっと喉の調子悪いかも。風邪かな」 「そうじゃなくて、」 遊馬崎の顔つきが真剣なものになった。狩沢はその目線を誤魔化すようにカフェオレを口に運ぶ。ストローから吸い出される液体は薄い味をしていた。 「結婚とか、いきなり何すか」 ストローが口から離れる。狩沢は眉間にしわを寄せた。自分で問いかけておきながら、今更後悔する。できれば遊馬崎と共にいるときは二次元に浸っていたいと思っているから、現実的な問題は持ち込みたくないのだ。 しかし、自分で吐露してしまった以上は話さねばならないだろう。声に出してみれば、少しは気分も楽になるかもしれない。腹を括って、狩沢は言う。 「何かねえ……母さんに、そろそろ結婚しろって仄めかされた」 「……それだけ?」 「うん、それだけ」 遊馬崎が首を傾げる。 「狩沢さんらしくないっすね。狩沢さん、そういうの普通に流す人だと思ってた」 「流すよ。無視するよ。モロ無視したよ。結婚とかいきなり言われても分かんないし」 そこで、狩沢はテーブルに突っ伏した。頭がごちゃごちゃする。何から言えばいいのだろうか。遊馬崎はどこまで受け取るだろうか。遊馬崎と共にいるのにこんな鬱屈とした空気を作り出してしまったことが、只管申し訳ない。 「結婚なんてしたくないなあ。一生独身でいたい。ちっちゃい頃から結婚とか全然憧れなかった。ゆまっち、何で結婚したいって思うの?」 適当に聞き流していたとはいえ、遊馬崎は即答した。てっきり「三次元のことなんか考えられない」とか、そのようなことを言われると思っていたのだ。 遊馬崎は幾分気まずそうに目を逸らしながら答えた。 「いや、何つうか……二次元キャラとなら結婚したいって常々思ってるっすけど」 「あ……そゆこと。それならあたしも思うわー……ただし婿じゃなくて嫁になってほしい」 狩沢は拍子が抜ける。しかし、それこそが遊馬崎であるのは重々承知だ。そうだ、聞き方がアバウト過ぎたのだ。今度はきちんと聞く。 「じゃあさあ、現実の女の子とかと結婚したいって思う?」 「いや、考えたこともないっすね。現実の女なんて」 遊馬崎はにべも無く切り捨てる。仮にも現実の女である狩沢を前にしてそのようなことをしゃあしゃあと言うところが遊馬崎であると思う。そして、狩沢は遊馬崎のその部分に安堵している。少なくとも遊馬崎はきな臭い人間関係を強要する人間ではない。 ああ、遊馬崎になら打ち明けられる、と思った。 「あのね……ちょっと嘘ついた。それだけじゃないのね」 遊馬崎が怪訝な顔をする。狩沢は遊馬崎を見ないようにして言う。 「あたし、結婚させられるかもしんない」 「えぇ? 誰と?」 遊馬崎は大仰に驚いた。確かに、狩沢にしても寝耳に水の話なのである。狩沢は首を軽く振って答える。 「知らない人。母さんがちょっと考えてみろってね。どっかの見合い写真見せてきた」 「……狩沢さんのお母さん、必死なんすね」 「まあね。婚期逃したくないらしいよ」 狩沢は何度目かの溜息をつく。手渡された写真には、人当たりの良さそうな青年が真面目な顔でかしこまって写っていた。それを見て狩沢は、ああ、この人は萌えの何たるかなんて分からないのだろうなあ、としみじみ思った。 狩沢は自由業で、月によって収入が大幅に変わることはままあるものの、きちんと一人で食べていけている。しかし、それでも母親にしてみれば定収入がないだけで心配なのだろう。或いは、孫の顔も見たいのかもしれない。 狩沢は取り立てて結婚したいわけでもなければ、共に生活を送りたい男がいるわけでもない。生活にもそれ程困っていない。子供が欲しいわけでもない。それに、見合いの意義を根本から否定する考えではあるが、結婚をしたいから自分に見合う男性を探すというのはどうにも本末転倒な気がしてならない狩沢なのである。 三次元の話は、つくづく面倒だ、と思う。 遊馬崎と一緒にいる間の二次元に浸れる時間は、幸せだ。 狩沢は大きく伸びて、思わずこぼした。 「あー、もし絶対結婚しなきゃいけないんだったら、ゆまっちと結婚したいなあ」 このとき、狩沢は遊馬崎について気付いていなかった。 まず、目を閉じていたので、当たり前だが遊馬崎の表情の変化など見えていなかった。よって、遊馬崎が相談に乗ろうという姿勢から俄かに真面目な顔つきになったことなど、少しも気付いていなかった。 また、ごちゃごちゃと頭で考えていたため、遊馬崎が黙り込んでしまった暫くの間にも疑問すら抱かなかった。この沈黙の間に、実に遊馬崎は百面相に転じるのであった。 やがて元の真面目な顔つきに落ち着いた遊馬崎は、伸びたまま固まって考えに耽る狩沢を見つめていたが、その顔色の冗談と本気の歩合を正確に計算すると肺に溜めていた空気を気付かれないようにゆっくりと吐き出した。 「……まあすぐ考えなきゃいけないことでもないし、今悩んでも仕方ないっか」 結局、狩沢は遊馬崎の方など一度も見ずに自己完結し、カフェオレを一口飲む。その様子を見て、遊馬崎は自分の頼んだコーラを口に運び、そっと目を閉じた。 心臓に悪い冗談だ。今日の狩沢はやはりおかしい。 そして、三次元の女の何気ない一言に動揺する自分も、おかしい。 |