悪い子供は帰らない 硬く乾いて、それでいて粘っこい指の腹が、額の上をゆっくりと辿っている。狩沢は黙って男の指のさせたいままにする。(許しているわけではない。)瞼の裏ではいくつもの光の残骸が身を捩らせながら流れて、池袋の夜はごみごみとしたざわめきを星の見えない空まで溢れさせていた。狩沢達はそれなりに悪い子供だったから、この何だか暗くなくて落ち着かない空も馴染んだものだ。 口腔の粘膜は酒のすうすうとした名残をひっそりと思い出して、溜まった唾を殊更緩やかに喉に落としていく。流れ続けていた男の指はとうとう狩沢の頬に到達してしまった。その粘つく指が動くたびに顔の表に残っていく軌跡からは、やや品に欠けた、いかがわしい気配が立ち上っていて、狩沢はそろそろ態度を決めかねていた。 少し前から少しずつ、門田のなすことは僅かに粘ついて、狩沢の足首だとか爪の端だとかに曖昧な糸を引いている。狩沢が見えない振りをしていることくらい門田にはわかっているのだろう。自分の察しの良さはよく覚えがあるからして、門田にも知られていることだ。では、許すべきだろうか? いや、そもそも今自分も門田も酔っぱらっているのだ。(……面倒くさい) (もう寝よう)眠れば、優しい門田は自分の身体をそのままワゴン車の後部座席に放り込んでくれるだろう。 瞼の裏に広がる出来損ないの闇に融け込むように、狩沢は関節の力を抜いて肺に残っていた重りを吐き出す。門田の肩は狩沢の温度を受けて温くやはりどこか粘りを帯びていて、時折流れ込むビル風の切れ端が表面だけ浚っていく。 不意に、唇が粘って、戦慄した。 (本気、だろうか?) 酒の力とは大胆なことだ。考えているうちに門田の親指は狩沢の随分前に塗ったリップクリームの残りを引き伸ばして、親指ではない指は狩沢の大分冷めた頬や顎を捕まえていた。呼吸が躊躇われて、道一本向こうの六十階通りでは相変わらず時給いくらの声が湧いている。そこのお姉さんちょっと。カラオケ三十分十円です。セール中セール中。勧誘とかじゃないですから、ね、少しだけ。ビル風が、バイクのエンジンが、足音が、池袋の夜はだるそうに生きていて、狩沢を動かすあらゆる器官だけがどんどん停止していく。瞼の闇は踊り、門田の息づかいにはずっと耳を澄ましていた。 目を開けると、門田がいた。当たり前だ。今も尚狩沢の唇に粘りを落とし続けているのだから。 「やっぱり、狸寝入りだったな」 「酔ってるね、ドタチン」 我ながら何とか弱いかわし方だろう。アルコールに湿った身体は、皮膚の浅いところまで寒気を呼ぶ。 「お前は、」 顔を寄せられて、門田の酔いは陰に沈みこみ、唇が重なった。 (多分本気だ) 「酔ってないだろ」 きっと逃げられるのだ。門田の弱みなんて大体知っている。門田の言うことは正しかった。身体中が冷静さに呑み込まれて、これではまるで狂っているのと同じだ。力の抜けた関節がたどたどしく動いて、がっしりとした腕の筋を服の上から探り、代わりに狩沢の背中が捕まった。酒に焼けた喉でないと聴けない息が、耳元で色っぽく囁いた。 狩沢は了承した。してしまった。 二人して汗みずくの肌をシーツに押しつけると側に放られた本の僅かな黴臭さが目尻を掠めて、狩沢は溜息を細長く吐き出した。枕元で斜めに倒れている擦り切れた文庫本がこの部屋の異質――狩沢を睨んでいる。 馴染みのCDショップが潰れた跡に何食わぬ顔で目立つ看板を掲げる大手古本チェーンに狩沢は未だ癪に思う気持ちを捨てきれず足を踏み入れることはなかったが、門田はどうもそういった躊躇いや背徳感は抱かないらしい。重なる値札シールの四角い100の字がどうにもけち臭い。そうして、門田の皮膚は混じり合うたびにどんどん粘りを失い、代わりに硬い生え際から水滴が狩沢の身体に絶え間なく降り注いで、あちこちに水たまりの子供じみたものを生んでいる。 (これもドタチン) 抱き込むようにベッドに沈めた癖に、電気は律儀に落とすのだ。酔っているからなのだろうか。おかげで何もわからないことが少しだけ残念だった。(素面でも計算できるようにはみえないけれど、)狩沢を見下ろす粘った瞳が暗い中でよく動いて、あやふやに済ませてしまうつもりではないらしかった。そういえば、避妊具は初めから引き出しにしまわれていた。 「ドタチン、」 弱々しい獣の声で男を呼ぶと、どこから湧いたのかもはや判断もつかない水の滴る手のひらが狩沢の頬を殴るように強く捕らえて、無数の恐怖の針が腕に細々と刺さる。今の男は真実男なのであって、狩沢にはもうどうしようもないのだ。(了承したのは私) 「京平、」 「え、」 「、京平って、」 よべよ。 硬めのシーツにどこかしらの体液が落ちる鈍い小さな音が下肢の方でごく僅かに響いて、時計がせわしなく濃度の高い一秒を刻み続ける。門田の腕はあっさりと狩沢の頬を離れると、流されるように狩沢の背筋の脇を這い降りていく。首筋に埋まる頭を抱けないまま、狩沢は依然突き刺さっている恐怖の針を丁寧に眺める他ない。 (……これもドタチン) 頭上の窓の向こうで素知らぬバイクが角を曲がり、門田の背中がゆっくりと揺れる。肩胛骨を閉じこめた存外に白い肌の上に細かい水の粒達は吸いついて震え、或いは丸い均衡を崩してばらばらに砕けてシーツの一部になり、狩沢はゆっくりと大分濁ってしまった息を吸い込んだ。許したことで一つ知った。セックスをするとき、門田は驚くほど人間の営みから逃げるのだ。 「きょうへい」 けれど、だから自分達は人間として池袋に受け入れられているのではないか。わざと鼻を通して呼べば男が悦ぶのだということに気付いて自ら乗り込んでいく。内臓で確かに拾え得る男の悦びが痛みとも痺れとも甘さともとれる衝撃を以て狩沢の身体を生死の向こう側に連れていこうとして、狩沢は、ああぁ、と呻いた。(私の心はここにある。ここにある!) のけぞった顎を撫でられながら、灰にうっすらと紛れこむほの青さに照らされて、狩沢は夜が明けようとしていることを逆さまの視界で知る。先ほどのバイクは朝刊だ。門田は、京平は、見ているだろうか。池袋の夜がすごすごと帰っていくのに、悪い子供は帰らない。 |