はじめての宝石 何の意味がこもっているのかわからない銀の指輪をはめている骨っぽい手が好きだ。大体のことについて知り尽くしていても、彼は喋るときにその指が一定の動きをすることをきっと知らないのだ。どの動きが嘘を並べているときで、どの動きが真実を転がしているときなのか、そういったことは沙樹には勿論わからない。それが本当か嘘かを沙樹は知ることができなかったし、大した問題でもなかった。あの手が好きであれば十分なのだ。 「コーヒーは飲めるかい?」 繊細で質素な白のティーカップが沙樹の前にことんと置かれる。銀の指輪とカップの陶器が固く触れ合い、擦れながら混じり合っていくように思えて、沙樹は足の間が痺れるのを覚えた。 この手に愛されてみたいなと常々思っている。 「飲めますよぉ」 (本当は数えるほども飲んだことがないけれど、)その手の子供臭さを隠すようにカップの下に指を回し、沙樹はコーヒーを口に運んだ。一かけら分だけ唇で切り取って舌の上をつるつると滑らせると、そう飲めないほど苦くはない。湯気に鼻を通しながら、わざとらしく、おいしい、と言ってみると、臨也は、へえ、と半分だけ笑った。 「臨也さん、コーヒー好きなんですか?」 「まあね。でも俺が一番好きなのは人間だなあ」 並べなくていいのに、と沙樹は笑おうと思ったけれど、臨也にとって並ぶ話であることを思い出して、その逡巡を隠すためにもう一度カップを口元に引き寄せた。まるで気付いていないように臨也もソファーに身体を沈め、指を組んだ。銀色の指輪が蛍光灯に反射して、沙樹の視界を曖昧にする。 「じゃ、本題に入ろうか」 「さき、」 初めてのキスは日の入り直後の公園だった。二回目のキスはスペイン階段、三回目のキスは展望台スカイデッキ。それ以降も、正臣はいつだって場所やせりふや雰囲気を精一杯選んで演出して、沙樹をお菓子で作られたパステルカラーの世界で包んでくれた。そうして今正臣が沙樹の唇をついばんでいるのも、彼が作り出した土台の上に成り立っているのだけれど、二人を包んでいるのはお菓子でもパステルカラーでもなく、日の落ちた正臣の部屋を彩る目に痛い鮮やかな黄色ばかりだった。 「……すき」 腰に回された手がうずうずと沙樹のカーディガンの裾をいじっている。正臣の平たい耳に引っかかるピアスが、中途半端に引かれたカーテンの脇をすり抜ける夕日の残り香を強く反射して、銀色が睫毛のあたりを掠めた気がした。 「うん、すき」 沙樹も言い返す。言われた分だけ返す義務があるような気がしたし、その義務を遂行することを沙樹は喜んで受け入れていた。正臣の手は迷いながら沙樹の腰を一通り舐め、沙樹の手首を掴んで持ち上げた。この頃になると間合いも掴めてくるので、沙樹はそっと目を閉じて唇を受ける。正臣がわざわざ誰もいない家に沙樹を呼んだ意味を、その誘いに乗った気持ちをとぼけるつもりはなかった。唇が離れて、正臣の手が沙樹の手首をすいと引き寄せた。ジーンズの上から撫でていると沙樹はだんだんと面白くなって、じきに正臣に肩を押されるまでにやにやと笑ってしまっていたのだった。 「、はじめて、」 「だよ、正臣」 「そっか、」 「正臣もでしょ」 「うっせ」 わざわざ日の入りの、電気を点けなくても自然な時間の薄闇で押し隠している耳の赤みも、沙樹の一言で明るみに晒された。正臣は出会い方も素行も何もかもが不真面目だったから、正直なところ、沙樹にとってそんなことはどうでもいいことにしていた。はじめて、なんていう甘く震える宝石なんて、輝くだけしか能のない感情だと思っていた。そうして、何年後か数えられない未来、沙樹の身体をゆっくりとあらためるのは正臣ではないかもしれない、という残酷なことも考えていた。(初恋は実らないとも言うし) 「……うれしい」 言葉がしっとりと耳に落とされる。ゆっくりと沙樹のカーディガンのボタンを外す正臣の指先から、じわじわと熱が胸元に広がるようだった。輝くだけしか能のない宝石は、けれど、輝くことで沙樹の心をあたためる。正臣が宝石を大切にする人であったことが、沙樹の心をあたためる。 「捕まる、」 「大丈夫、あっちにはもう話は通してあるよ」 コーヒーはカップの底にへばりついて広がっていた。トイレに行きたいような気もしたけれど、沙樹の腰はソファーに引き寄せられて動かなかった。臨也は話している間に指をあれこれ動かした挙句、ソファーの周りを徘徊していた。背もたれに肘をつき、沙樹を覗き込む。臨也は全く男のにおいがしなかった。正臣の首筋から滲むような、男のにおいが一つもしなかった。臨也には沙樹も正臣も周りの誰も及ばない秩序が存在していて、つまり、臨也が大丈夫なら、沙樹も平気なのだ。 「わかりました」 にっこりと笑って見せると、臨也もにっこりと笑った。なかなかにきれいな人だと思う。正臣は恋人の贔屓目を差し引いても整った顔立ちで、少なからず女性の気を引く見目であると思うけれど、臨也の持つきれいさには決して近付けない。 「あのさあ、下世話なこと聞くけどさ、」 鋭利な口角が問う。 「はい?」 「沙樹ちゃんって、処女?」 てのひらと太腿の内側に痺れが走った。沙樹は薄く笑った。 「違いますよ」 冷めたコーヒーカップを両手で行儀良く包んで最後の一口をすすり、カップの縁を目線でなぞる。臨也はこの一言で、沙樹に何を見るのだろうか。苦い舌先が疼き、臨也の目を見つめ返すことができない。 「ふーん、なら良かった」 「どうして?」 「女の子のハジメテって特別って言うじゃん」 空になったコーヒーカップをソーサーに戻すと、事務所に溜まった何てことのない沈黙を陶器のぶつかる軽やかな音が濁した。臨也と目が合うと、沙樹はそっと小首を傾げて「そういうものですか」と演じて見せた。嘘を並べようとするのか、真実を転がそうとするのか、僅かに動いた銀の指輪が蛍光灯を跳ね返して、冷たく沙樹の睫毛をよぎる。正臣も臨也も、金属で身を守りたがっていることがふとおかしく思えた。金属を持たない沙樹の胸の奥深くでは、正臣が丁寧に埋めたはじめての宝石が静かに輝きを保ち、沙樹の身体をあたため続けている。 |