右手 世界には吐いて捨てるほど人がいて、そのうちのほんの一握り、いや、それにさえ到底及ばない数がここにいる。しかしその凄まじさと言ったらどうか。見渡すばかり、黒い頭と応援グッズの強い橙色に埋め尽くされ、一人一人の発する熱は今の季節を忘れさせる。これだから、スポーツに精魂を燃やす人々のエネルギーは侮れない。 ぽっかりと深い闇が球場の天井に浮かんでいるのをぼんやりと見上げてから、阿部はそっと視線を下げる。ブラウン管ごしに見ていた選手達は球場のあちこちに散らばり、緊張と高揚をユニフォームに包まれた全身に隈なくめぐらしていた。あの場に立つ者だけが許される緊張と高揚。阿部は噛み締めるように見つめる。 ピッチャーが小さく頭を動かし、構える。あのピッチャーは現在阿部がバッテリーを組んでいる挙動不審な彼とは違い、何とも居住まいが堂々としている。真に自分の技術に自信があるのだろう。 しかし、どんなに速い球を投げられようが、ストライクゾーン九分割はそう簡単に真似できない筈だ。それを思うと、阿部は何だか嬉しくなる。性格に少々問題はあるとはいえ、自分は滅多にまみえることのできないとても良い投手に、高校生で巡り会えたのだ。その確率の途方もなさ、そして幸運さに涙すら出てきそうだ。 ピッチャーは流れるようなフォームに入り、強烈なストレート一本放った。ツーアウト三塁、既にストライクを二つも取られているこの状況で、相手のバッターは相当力んでいるのがよく分かった。バットを握る指に力がこもり、力の限りに振る。 振った遠心力でバットはそのままあらぬ方向に飛び、はてさてボールの行方は何処か。観客の間に緊張が走り、勢いよく振られていた応援グッズの動きが鈍る。 バッターが頭を抱え込み、キャッチャーが得意げにミットの中のボールを見つめながら立ち上がる。守り切った。達成感が沸き起こる。 緊張に固まっていた観客席はゆるゆるとほどけ、同時に声援があちこちから上がる。バッターに対する野次も飛ぶ。 「わああ、凄い! また今回もストレートで守ったよ! ねえ!」 球場の形式上少し身じろぎするだけで肘が当たってしまう、そんな距離から紅潮した顔が興奮で震えながら阿部に話しかける。目の輝きようと言ったら、何と形容したら良いのか分からない。ただ、ここまで生き生きとしている篠岡を見ることはなかなかできないということは明白だ。 「テレビ画面だとやっぱり迫力とか分からないから、来て正解だったな」 そんな顔に釣られるように笑って応えると、篠岡は凄く嬉しそうに大きく何度も頷いて、また視線を球場に戻す。チェンジはもう終えたようだ。オレンジジュースの入った紙コップを握る篠岡の手が震えているのを見て、阿部は篠岡をここに連れてきて良かった、と心中一人ごちる。 知人から運良く二枚までチケットを貰ったので花井辺りを誘ったのだが、生憎の不都合で行けず余ったチケットのやり場に困っていたところに声をかけてきたのは、予想外に篠岡だった。花井達に対して阿部がちらつかせていたチケットを一目見て、どことどこの試合でいつどこでやるのかを瞬時に理解した篠岡は、何となく阿部の方をちらちらと気にしていたらしい。 ――あの、阿部くん。そのチケットって、もしかして。 正直に言えば、篠岡と行くのは乗り気ではなかった。もう小学生でもあるまいし、二人して夜に出掛けることに対してとやかくからかう者などいない筈だが、それでも同い年の見知った少女と二人で出掛けること――いわゆるデートと取られてもおかしくないことに、それなりの気恥ずかしさと気まずさを抱いたのだ。 何より、篠岡だから。 田島のように単純であったらどんなに楽だろう。好き、嫌い、の区別がはっきりしていることが堪らなく羨ましい。水谷のように誰とも気さくに気楽に話せればどんなに楽だろう。そうであればまず三橋だって無闇に自分を怖がったりもせず、また篠岡も自分に対してあそこまで恐る恐る遠慮がちに声をかけたりしない。 自分が篠岡に密かに抱くこの気持ちは、恋とかそういうもののように甘酸っぱいわけではなく、またそれを裏返したようなどろどろと黒いものでもない。強いて言えば同属意識とでも言うのだろうか。 篠岡が野球にかける情熱を垣間見るたびに、自分と通じるところが一つまた一つと見出されていく気がする。そして見つけていくたびに心ばかりは篠岡に近づいていき、現実との距離に複雑な心地がするのだ。篠岡の他の選手に対する態度と自分に対する態度との差に気付くごとに、発作的にどうしようもなく歯痒くなるときもあれば、諦めの念を抱くこともある。いや、相手に求める態度以前に、自分が冷たいと取られるような態度しか取れないのがいけないのだ。 一人目のバッターがギリギリで出塁するのを見届けながら、阿部はそっと篠岡の横顔を窺う。大きく見開かれた形の良い眼の下辺りで、少女特有の艶々とした輝きがちらつき、化粧をしなくても柔らかな赤みを保つ唇は試合の動きに一喜一憂する。頬のラインにほわほわとかかる細く茶色がかった髪の毛は周りの人いきれに小さく揺れる。 「あっ……打った! やった!」 二人目のバッターも調子良く打ち、こちらを見ずに篠岡がガッツポーズを取る。周りの騒がしさと応援グッズを打ち鳴らす音が一気に増えて膨れ上がる。篠岡もそれに釣られるように黄色い声を上げて、届かない声援を送る。 いつもの阿部ならば、やはり同じように応援の波に乗って叫ぶ頃合なのに、何故だか大人しく戦況に見入るのみだ。やはり隣の存在が大きいのか。かっこつけていたいのだろうか。 例えば、仮に、この気持ちが恋だとしよう。その場合、この野球観戦デートは告白にはもってこいだ。他の野球部員はいないし、周りは知らない人ばかりで野球に夢中だ。例えば、試合に意識が向いている篠岡の手をジュースごと握ってこちらに向けさせ、一言、好きだとか何とかと言えば良い。 だが、それをどう転んだってできないのが、自分の性格である。阿部はそれを少し残念に思ったし、できないでいる自分に実は安堵もした。 好きと言ったところで叶うあてもなく、寧ろ気まずくなるだけだろうから。 「打て打てーっ!」 とうとう拳を振り上げ始めた篠岡に苦笑しつつ、阿部も身体を乗り出して球場を見守る。 ピッチャーが猫背気味にキャッチャーの方に身体を向ける。おどおどはしていないが、不安そうな様子が少し三橋っぽいと思う。この頃、ピッチャーを見ると真っ先に西浦高校野球部のピッチャーと比べてしまう癖がついてしまった気がする。 右肩と右足が下がり、上体が捩れてボールが飛ぶ。遠いので球種はすぐに判断できない。バッターは振らず、審判がストライクと判定する。酒が入った中年男の野次が飛ぶ。 喧騒に包まれながら、やっぱり篠岡の方を見る。篠岡は最早試合以外は眼中にないようで、右手の紙コップは今や潰されようとしていた。勿論、彼女はそのような事実に毛ほども気付いていない。 ――あれ、中身、入ってるよな。 そう思った途端、篠岡の右手がさらに強く握り締められ、紙コップが斜めになった。縁にオレンジ色の液体が迫る。何かを考えるよりも先に手が動いて、まめだらけの固い阿部の手のひらは、マネジ仕事故の少し荒れた篠岡の手の甲をジュースごと覆っていた。 「え、」 唐突な感触に、篠岡の顔が振り返る。瞬きする間も惜しんでいたのか、少し潤んだ瞳が、驚いたようにこちらを見つめ、続けて阿部の手にすっぽりと収まる自分の手を見つめる。 一方、阿部も自分で自分のした行動に度肝を抜かれていた。哀れなジュースが零れないようにするべく掴んだのだったが、先ほど思い浮かべた告白の仕方と何から何までかぶっていることに動揺を隠せなかった。 「あ、えーと、」 直線的に伸びる視線を受け止めきれずに、顔ごと少し背ける。手のひらに吸い付くように包まれている篠岡の右手は細くて小さい。言葉は見つからず手のひらの感度だけが増していき、頬に熱が上がった。ここでちゃんと言わなくては、篠岡に怪しまれる。俺はどうしてこの手を握った? そりゃ、ジュースが零れるからだ。簡単なことだ。しかし、妙に暴れ出す心臓を押さえつけることができず、唇は上手く動かなかった。 「あ、阿部くん……?」 先ほどの声援が嘘に思えるほどのか細い声が耳朶を打ち、阿部は我に返る。反射的に振り返った先に目尻から耳の先まで赤みの増した篠岡の顔が見えて、余計に慌ててしまった。 「ジュースが、」 篠岡の手から少し乱暴に紙コップを奪い取る。取ってからその動作の荒々しさに反省し、ごめん、と呟く。これだから自分は怖がられるのだ。周りの喧騒が耳に痛い。 篠岡の顔と手が、ほんのりと赤らんでいる。 「ジュースが零れそうだった。気をつけろよ」 たどたどしくないだろうかと不安になりながら言うと、ジュースを握った手の形をそのまま保って固まっていた篠岡は慌てた動作でその手を下ろす。未だに顔は阿部の方を真っ直ぐ向いている。目を逸らしてくれれば良いのに。 「あ、そ、そうか……。ご、ごめんね、ありがとう」 ぎこちなく笑って篠岡は手を膝の上に置き、阿部は握っていた紙コップを篠岡側の席の脇に置く。少し気まずい空気が流れ、それを誤魔化すように阿部はスタンドに目を向けた。篠岡の様子を窺いたいが、今そちらを見て篠岡がまだ自分のことを見ていたらと思うと、勇気がなくて覗けなかった。 打者が力強い一本を打った。残念ながらホームランにはならなかったが、敵側の内野が取り落とし、ベースにいる選手達が一斉に走り出す。点数が入る。割れんばかりの歓声が沸き起こり、周りの人々が次々に立ち上がり始めた。 篠岡の方をこのときになってちらりと見ると、既に先ほどと同じような輝いた表情で身を乗り出し、半ば立ち上がりかけていた。篠岡の向こう隣に座る女が立ち上がったのを皮切りに、篠岡はとうとうすくっと立ち上がった。スカートの裾から覗く白い足は真っ直ぐ伸びて、周りの空気と溶け合うように懸命な声援を送る。 先ほどのあの気まずさなどとうに吹き飛んでいる。これだから野球好きはやめられない。 よし、と腹を決めて、阿部も立ち上がった。隣で篠岡が驚いたように声を漏らすのを聞きながら口元に手を当て、ベースを踏みしめて堂々と胸を張るその打者に精一杯の声援を送った。 阿部隆也は気付かない。 篠岡千代が、握られた右手を庇うように左手で押さえていることに。 |