Suprise



ただでさえ緩やかな思考力をさらに低下させる暖房の温かみにふやかされた空気から抜け出た廊下の空気は、教室のそれと比べて酷く冷たく硬いように感じる。上履きの裏側で、足の指先が寒さに耐えかねて縮こまった。栄口勇人は冷えて感覚の薄い指で弁当を持って、セーターの袖を手繰り寄せながら七組へ通じる廊下を進む。まったく移動する身にもなってほしいものである。この冬場、コートも着ないで外気温と変わらない寒さを誇る廊下を歩くのはなかなかに辛い。それでなくとも、さっきまで教室のぬるま湯のような空気にどっぷりと浸かっていたのだ。体感温度の低さは只者ではない。
キャプテンと副とで軽いミーティングをするため、栄口は授業終了と共に弁当を持って廊下に出た。部員全員に相談するまでもないことなので、昼休みに軽く話し合うことになり、一人だけ一組である自分が移動するのは必然的に決まった。今までにも同じメンバーで話し合うときは、やはりキャプテンと副の片方の両者がいる七組に大抵集まっていた。七組とは即ちキャプテン会議の場でもあるのだ。
一組って損だよなあ、といつも思う。学年全体で何かをやるときは、決まって最初か最後かどちらかだ。七組なんて数えれば真ん中に近いのだから、良い方だろう。それといいこれといい、つくづく羨ましい。
考えても詮無いことばかりをぼんやりと思いながら、栄口の上履きは一年七組の札が下がっている教室の前までふらふらと歩み寄る。昼休みだというのに暖房のせいかドアをきっちりと閉めきっている。他のクラスというだけで結構入り難いものなのに、さらにドアまで閉まっていると入り難さ倍増だ。七組に野球部以外の知り合いがいないわけではないのだが、何せ一組と七組、間に五つもクラスを挟んでいては交流を望むのも難しく、顔見知りでない人間の方が圧倒的多数であることは否めない。
これだから移動するのってちょっと嫌なんだよなあ。
口の中で音に出さずに呟いてがちがちに冷えた手を首筋に当てて束の間暖め、栄口は扉に手をかけたそのとき。
「あっ」
左肩に誰かの小さな手が乗っかり、さかえぐちくん、と、耳元を生暖かい息と上ずった高い声が掠めた。反射で振り返ると、驚くほど近くに篠岡千代が立っていた。先ほど声を漏らしたのは千代であると分かったが、それ以上に予想外の篠岡の近さとどこか焦った顔に、栄口は「うわっ」と咄嗟に口を滑らせる。
「あっ、ご、ごめん」
左肩にかかっていた手を篠岡がどけた。同時に数歩退いて、二人の間に少し距離が出来る。思わず洩れ出た溜息に、栄口は自分が呼吸を潜めるほど瞬時に緊張していたことを思い知る。ああ、これがシガポの言うリラックスか、とどうでも良いことを何となく思い浮かべて、言葉に迷っている篠岡に声をかけた。
「どうしたの? もう中で弁当食べ始めてるんだろ?」
「うん、そうなんだけど……」
ふよふよと目線を落ち着かなく彷徨わせながら、篠岡がおずおずと切り出す。
「ちょっと、栄口くんにお願いがあるの」
窓から差す冬の太陽の柔らかい光を吸収して帯びる丸い瞳は、どこか楽しそうに瞬きをしながら栄口を見つめた。


後ろ手に扉を閉めながら、教室全体に目線を動かす。入った途端に狼の腹に飲み込まれたように身体全体を包み込んだ生暖かい空気に、廊下を歩いたせいで末端部がどれほど冷えたかを思い知らされた。探すまでもなく目当ての集団はすぐに見つかって、様々な食べ物の匂いが入り混じった空気を掻き分けながら、栄口は声をかける。
「うっす」
手を上げて軽く挨拶すると、最初に気付いた花井が弁当から顔を上げて「おお」と答えた。阿部もそれに釣られて顔を上げる。何も役職についていない筈の水谷も二人に加わっていて、箸を咥えながら相好を崩して「栄口だー」と笑った。三人の側に寄った栄口は、手近な椅子を引いて自分も座り、机の上に弁当を置く。阿部と花井が少し自分の弁当を寄せてスペースを空けた。一人だけ気を利かせることもなく場所を空けなかった水谷は、締まりのない笑顔で栄口を覗き込みながら、早速口を開いた。
「ねえねえ栄口、世界史の教科書持ってる? オレ今日忘れちゃってさー」
オレべんきょーしないのに持って帰っちゃうんだよねぇ、と水谷は笑う。無邪気であるところがかえって反感を買いそうである笑顔だが、この能天気さはその場の空気を取り持つし、これでなかなか人の気持ちを推し量るのは上手い奴なのだ。忘れ物を栄口に借りに来るのはいつものことなので、弁当の紐を解きながら一つ息をついて「後で取りに来いよ」と言えば、水谷は嘘のように明るい声で「うわー、栄口大好き!」とのたまった。
「おいクソレ、お前教科書忘れるの、今週に入って何回目だ」
口元をもぐもぐと動かしながら、阿部が口を挟む。冷たく聞こえる声音でも、これが素であるのは密度の濃い付き合いの中から分かっているので誰も気にしない。
「クソレとか言うなよ! まだ今週は二回目ですー」
「いい加減栄口も迷惑がってるっつーの。つーかお前、寝る前とか家出る前とか、鞄の中身確認しねぇの?」
「してるよ! してるけど……うーん、何か忘れるんだよ」
「だからお前はいつまで経ってもクソレなんだ」
「うわー、阿部ってヒドーイ」
女子のように語尾を伸ばしながら、ねえ何とかしてよー、と今度は花井に助けを求め始めた水谷の情けない声を聞き流しつつ、栄口はさり気なく横目で教室内を探す。むせ返るような弁当の匂い、箸を突付きながら他愛の無い話に花を咲かせる生徒。各々がグループを作っている中、女子のグループの一つの中で篠岡は食べ終わった弁当を片付けていた。
栄口が見ていることに感づいたように、篠岡がこちらを向いた。大きな目がくるりと動いて目配せをする。弁当の中身を順調に口元に運んでいた栄口の手がぴたりと止まる。作戦開始か。
篠岡が、女子グループに断りを入れて、紙袋を持ってこちらにゆっくりと近づいてきた。篠岡の後ろからは、黄色く気だるい声で篠岡を冷やかす女子達の言葉が飛ぶ。篠岡は少し困ったように笑って振り返りながら、忍び足になった。
やがて、篠岡は水谷と花井の会話にわざわざ口を挟んでいつもの口論になっている阿部の真後ろに立った。阿部は全く気付かないが、さすがにこの距離であれば花井と水谷は気付く。二人が同時に篠岡を見上げて問いかけようとする。
間髪要れず篠岡の白い両手が阿部の目元を後ろから塞いだ。
「わっ、誰だっ」
後ろから押さえ込まれた状態から無理矢理振り返って目隠しを仕掛けた正体を探ろうとする阿部の頭を、篠岡は強く押さえ込んで目隠しをする。今目隠しを取られては全てが台無しだ。栄口はその隙に、言われた通りに篠岡が足元に置いていた紙袋を手早く拾い上げ、中身を阿部の目の前の机に広げた。阿部は依然目隠しをされたままで暴れている。
花井と水谷は突然の展開に口をぽかんと開けた。花井がおざなりに「し、篠岡……?」と問いかけるが、篠岡はどこか楽しそうに阿部を押さえ込むだけだ。阿部は誰何を問い続けながら身を捩っていたが、不意に自分の目元を塞ぐ手が女子の手であることに気付き、動揺から抵抗を緩めた。
「阿部くん」
それを好機に、篠岡は阿部の頭をぐっと寄せて耳元に囁いた。


「ハッピーバースデー!」


小さく叫ぶと同時に、突き放すように手を離す。途端に阿部は机の上に折角用意したものなどには目をくれずに即座に篠岡を振り返り、阿部を突き放した手のまま嬉しそうな顔をする篠岡を憮然とした顔で見上げた。
目隠しを解いた瞬間に、机の上のものが目に入るようにしたかったのに。栄口は思わず溜息をついてしまった。この短気な男は、どうしようもない。
篠岡を見上げる形で固まった阿部を見て、篠岡の笑顔が僅かに揺らぐ。一瞬の沈黙の後、篠岡は困ったように言った。
「阿部くん、今日、誕生日……だよ、ね?」
垂れ目の中の黒目の部分が浮き上がるように小さくなり、阿部は呟いた。
「……今日って、十一日?」
どこまでも信じられないという感じの阿部の声に、栄口はいよいよ頭を抱え込みたくなる。折角篠岡がお膳立てしてくれたのに、主役がこうでは意味を成さないではないか。
「阿部、」
痺れを切らして阿部の肩を突付き、振り向かせる。無言で机の上を示すと、さらに阿部の顔には驚きの表情が浮かび上がった。
様々なトッピングをされたマドレーヌが五つ、可愛らしいタッパーに詰まっていた。マドレーヌのうちの一つは他よりも少し大きく、「Happy Birthday」の文字が柔らかく描かれていた。言わずもがな、それは阿部のためのマドレーヌである。
何かを言おうとして何も言えない阿部に、篠岡は喉の奥でくすくすと笑いながら説明を始めた。
「昨日、阿部くんの誕生日、急に思い出してね。どうせだからこのミーティングの人数分のマドレーヌを焼いてきちゃいました! サプライズやるつもりだったけど本当に何も計画してなかったから、急遽栄口くんに助っ人を頼んだんだけど、」
そこで篠岡はにやにや、ととても嬉しそうな顔になった。先ほど廊下で協力を頼まれたときはそこまで表情には出していなかったが、あのときの篠岡は今と同じ、いたずらを目論む子供の輝いた目をしていたように思う。
「阿部くん、サプライズにするまでもなく自分の誕生日忘れていたみたいだね?」
「えー、コレ、篠岡が作ったの? 凄いね、美味しそう!」
聞いてきたのは阿部ではなく水谷で、栄口よりもさらに前のめりになってもの欲しそうな顔でタッパーの中身を見つめている。花井は水谷の今にも伸びそうな手を押さえながら、そんなことないよ水谷くんと照れて笑う篠岡を見上げて聞いた。
「篠岡、人数分って、これ、オレらの分ってこと?」
「そうそう。どうぞ、召し上がれ!」
言って、阿部の顔の横から手を伸ばしてタッパーを手に取り、水谷、花井、栄口の前に置いていく。自分の分は机の適当な場所に置いて、阿部用のマドレーヌを慎重な手つきで取り出した。
「阿部くん、何か言ってよ? 今、凄く面白い顔してるよ」
笑いながら、阿部に差し出す。反射で阿部は受け取り、未だに放心状態のままで篠岡を見つめた。いい加減何も言わない阿部に苛々した花井が、机の下で阿部の足を蹴り飛ばす。じろりと阿部が横目で睨んでくるのを負けじと睨み返すと、珍しく阿部の方から引き下がった。
今日の主人公である阿部がきちんと受け取って、何かを言わない限り、マドレーヌに手を出してはいけない気がして、栄口は花井に倣ってマドレーヌを持つだけに留めた。まさに食べようとしていた水谷は、栄口と花井の様子を見て寸止めする。
「えーと、その……」
阿部が目を逸らす。普段はあれだけ冷静なのに、対処に困ることが起きると必ず目を逸らすのだ。そのときの目元の眇め方も特徴的だ。
もうそろそろ、栄口が阿部と知り合ってから一年が経とうとする。一年前には知らなかった阿部の特徴も多く分かるようになった。あのときの阿部は十五歳で、今の阿部は今日から十六歳になるのだ。
さんざん時間がかかって、水谷がこっそりとマドレーヌの端を突付いてこっそりと食べようとする頃。

「……ありがとう」

搾り出すように紡いだ最も気持ちが伝わる簡素な言葉に、篠岡は満足げに眼を細めて笑った。









十六歳になった阿部に一言。
十六歳になったんだから、もう少し無愛想と短気は改めた方が良いと思います。
水谷くんにもう少し優しく接してやって下さい。私が言えたことじゃないですが。

07/12/10



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