笑窪 何となく苗字を呼ばれたので、教室の入り口を振り返った。昼休みの往来はこの高校の生徒数の多さを示すようで、当然のように声の主はよく見えない。丁度喋っていた沖に軽く断って席を立ち、顔を傾げるようにして見慣れている筈の姿を探す。黒や茶の混じった様々な頭の向こうで、清潔感漂う白の半袖から伸びるよく日に焼けた逞しい腕が鷹揚に振られた。思わず口元が綻んで言葉が滑り出る――「巣山!」 大柄な体躯が不便そうに人込みの間を割って、教室に入ってくる。涼しげに剃った頭に、薄く汗ばむ額、頼もしげに笑う口が開いて「よっす」と挨拶した。 「どうしたの、巣山」 身長はそれ程変わらない筈だが、どうしてか見上げるようにしてしまう。巣山尚治は仰ぎ見たくなる、そんな風格を持っている。どの角度も頼もしく思えるのだ。この一ヶ月近くを共に過ごしてみて、西広はそのような印象を抱いている。 そうして上目で眺めつつ、巣山の訪問という小さな非日常性に自然と心が躍った。十分休みは早弁の時間で、昼休みは昼寝の時間であるからして、部活以外に学校で顔を合わせることはあまりない。それはつまり、用件があるということで、何より自分を名指したのが気になる。 「いや、ノートノート」 手をひらひらと泳がせつつ差し出してきたのは、うぐいす色の大学ノートである。酷く見覚えがあると一瞬感じたのもその筈で、それは自分のノートだった。端にはご丁寧にクラス番号名前と揃えて、黒々と書き込まれている。 汗と土の臭いに巻かれ、アンダーシャツから首を抜いたところで巣山に頼まれた。一昨日の夕刻、疲れに霞んだ視界の中で拝むように大仰に手を合わせていた。特に困ることもないので、まだ使い始めて新しい鞄からそのノートを取り出した。比較的近い記憶であるのに遠く思えるのは、野球に捧げる毎日が早いからだろうか。 「ちょっと遅くなってごめんな。すげー助かった」 差し出されるままに受け取ると、巣山が少し目を逸らして言った。授業もなかったし、もう少し長くても構わなかった旨を告げると、いやいや悪いしと首を振り、ふと思いついたように言った。 「西広、いつも持って帰って使ってんだろ。俺が借りて本当に良かったか?」 「借りて悪い理由なんてないよ」 慌てて即答する。迷惑をかけられたように思われることこそが迷惑である。心なしか返す言葉が喉仏の辺りで上ずって焦った。怪しまれることも恐ろしくて、平静を保つように口早に弁解めいたことを呟くと、巣山は、ならいいけど、と笑んだ。途端、焦燥に痺れていた唇が、すっと収まるのを感じた。 巣山はそのまま半ば身体を反転させる。踵を返しつつ、巣山はまた手をひらひらと振った。残念ながら、普段ボールを握りこむその指はあまり軽やかな動きは作れない。 「俺、次移動教室だからそろそろ行くわ」 「うん、部活でね」 こちらをちらちらと振り返りながら、巣山は特に急いでいる風でもなく大きな歩幅で歩く。相変わらず巨躯は人込みでは不便そうである。不器用な動きをする腕と共に笑顔が見えなくなったとき、唐突に思いついた。 (笑窪だ) 巣山の引き締まった口元に、見た目の固さとは裏腹な柔い笑窪が一つ浮かんでいた。笑窪のできる顔なのだ。図らずして笑いが込み上げてきた。巣山らしいと言えば、巣山らしい。 野球部に入ってまだ一ヶ月と少ししか経っていない。そしてそれはそのまま自分の野球の経験でもあり、チームメイトとの距離でもある。よく話す方である巣山とて例外ではなく、チームメイトとして話すことはあれどこのように相対するのはほぼ初めてと言っても良かった。 グラウンドで、勝手の分からない自分にあれこれと教えてくれたり、助言をくれたりしてくれた巣山だけが全てでなく、今さっきここで温和な笑顔を見せたのも、勿論巣山である。当たり前だが、その違いに気付けたことが愉快であった。 (そうか、笑窪のできる奴なんだ) 緩んでしまった口の端をきゅっと引き締めて、沖の下へ戻る。正面にすとんと座ると、沖が一瞬口を開きかけ、何かを言う前に慌てて閉じた。 「え、何? 何かある?」 聞き返すと、沖は慌てたように首をぶるぶると振る。 「あ、何でもないよ、大したことじゃないから」 「そう言われると気になるじゃん。何だよ」 身を乗り出すと、沖は首を竦めて身を引いた。一ヶ月も同じ教室で過ごせば相手の性分も少しはつかめてくるもので、沖はこういう風に押されるのに弱い。 「別に、本当にどうでもいいことなんだって!」 「どうでもいいなら教えろよー」 「つまんないよ、本当に」 「いいから教えろって。どうでも良くていいから」 沖が小さく溜息をついて、恐る恐るこちらの顔を指差してきた。正確には、口元を。 「え、何かついてる?」 慌てて指で擦る。弁当の名残か。巣山に見られていたのかもしれない。しかし指は何も見つけない。 「あ、違くて、その、えっと、」 沖がまた小動物を思わせる動きで首を振り、心持ち微笑んだ。 「笑窪」 「え?」 「西広って、笑窪できる奴なんだなあって思っただけだよ」 ほんとに、それだけだから。ほら、別にどうでもいい話だったろ。沖が照れたように笑いながら指差していた手を下ろした。何か返さなければならないのに、何も言えない。どのような反応を示せばいいのだろうか。驚いた。ただそれだけである。 そして、予想外に喜ぶ自分がいることに、西広辰太郎は漠然と戸惑った。 |