林檎の赤


「そこで鍵ないのに初めて気付いてさあ、」
向かって右の耳の上の辺りの髪の毛が飛び出ている。左の方は大人しくうねっているので、普段の不規則なシンメトリーが崩れている。きっと、寝癖か何かだろうと思う。千代は昨日左を下にして寝たのだろうか。女の子の気配が充満した見たこともない部屋のベッドで、可愛らしい布団を肩までかぶって規則正しく寝息を立てる千代を思い浮かべる。部屋はきっときれいな方なのだろう。女の子らしい部屋かもしれないし、彼女の挙動を見るに案外さばけた部屋かもしれない。教科書はきちんと並べられて、部に必要なデータを記したノートは分類分けされて立てかけられている。本棚にはどんな本が並んでいるだろうか。漫画も読むだろうか。
「慌てて来た道を下見ながら戻ったんだけど、なかなか見つかんなくて、」
柔らかそうな頬が赤々と光り、えくぼを浮かべて笑みを作る。千代はいつも顔が少し赤らんでいる。りんごのようなほっぺた、というのを遠い昔絵本で読んだ記憶があるが、それはまさに千代のことを指すのだろうと納得する。なるほど、赤く熟れて所々に光沢を混ぜ、どこか美味しそうな、人を誘う色をしている。
「もう、恥ずかしいくらい、凄くパニクっちゃったの」
小さな歯を覗かせる笑い方を、千代はよくする。唇は大抵程よく乾いているけれど、今日に限って、運の悪いことに――或いは良いとも言うかもしれない――きちんと赤らんで潤っていたのだった。リップクリームでも引いたのだろうか。女子がそうしたものを常に携帯したがるのは何となく知っているが、千代もやはりそうなのだろうか。何にせよ、健全な笑みを浮かべる顔の中で、最も水気を孕んだそこは阿部を酷く落ち着かなくさせるのだった。
「それでさあ――阿部くん、」
不意に千代の笑みが下がる。真っ直ぐ見上げられて、見慣れた二重瞼を確かめる。睫毛が長いのも知っている。横から見ると、決して多くはないけれど、一本一本を丁寧に辿りたくなるように長く曲線を描いているのがよく分かるのだ。
「……おう、」
名前を呼ばれたから、とりあえず返事をする。自分でも驚くほど素っ気ない声が出た。遠慮を忘れた目がみっともないくらい千代を眺め回しているのを、口は必死に隠したがっているらしい。それこそ一番格好悪いのは知っているけれど、だからと言って今更やめることはできない。
「大丈夫? なんか、ぼーっとしてない?」
小さな手の平を目前に翳されて、阿部は思わず身を引いた。ところどころ荒れていたけれど、総じて白く小さな手だった。指先が頬の色を映したように赤い。人を誘う、赤。飛び出そうとしたものを阻むように阿部は唇を引き結んだ。口内までせり上がった衝動はこっそりと舌を暴れさせることで回避する。
そろそろ、限界かもしれなかった。
「……別に、平気だけど」
舌が落ち着いたのを確認して、答えた。素っ気ない声の次は、冷たい声だった。間近に迫っていた手の平が、おっかなびっくり引いていく。千代の頬がほんの少しだけ赤みを失わせた気がした。彼女の無意識は、阿部を誘おうとはしていないらしい。
「そう? でも、少し顔赤っぽいよ?」
茶色がかった瞳がずいと覗き込んできた。指摘されたことに頬が熱くなる。しかし、きっと自分の頬は林檎の赤さを上手く出せない。彼女を誘い出せない。何故、千代は気付かないのだろう。こんなに情けない思いをしているのに、気配りの上手い彼女がどうして分からないのだろう。
「寒いからかなあ。もしかしたら、熱かも。大丈夫?」
愚かな千代は、もう忘れたのか引っ込めたばかりの赤らんだ手の平を伸ばして、再び阿部の額に触ろうとしていた。阿部は反射的にその手を制して、襟元のマフラーを寄せる。これ以上あの赤さに接近を許してはいけない。わざとらしく「寒い寒い」と呟き、千代から半歩距離を取る。赤がさらに色を落としたように思うのは、離れたからか、彼女がまた身体の奥にしまい始めたからか。
「寒いからだよ。熱なんかねえよ」
用意する余裕のあった声音はそれでも硬かったけれど、先ほどよりは和らげたように思う。ここで笑いかければ良いのかもしれないが、口角が寒さに固まってどうにも動かない。千代は「そっか」と答えて自然な笑みを作れるのに、彼女にできることがどうしてか自分にはできない。
「でも、一応気をつけた方がいいよ。流行ってるし」
気遣わしげに見上げるのはやめてほしいと思った。小柄な彼女にはそうすることでしか阿部と目線を合わせることができないというのは分かっているけれど、目線が合うことそのものを阿部はどうにも心地良く思えないのだ。再び上がってくる。今度は飲み下す。
「流行は過ぎただろ」
再び、素っ気ない声が出た。もう、いい加減諦めた。
「油断は禁物だよ」
答える千代は対照的にどこか嬉しそうだった。鼻の頭も赤い。昨日はとても温かかったのに、逆戻りした天気はいたずらに体温を奪い、彼女の内側に潜んでいる林檎の赤さをじわじわと表に引き出す。収め方を阿部は何となく知っているけれど、それだけは絶対にできない。
また元の話に戻り始めた。昨日と今日で、千代は少し変わっているけれど、総じて言えば何も変わらない。寝癖のようなものがついているのも、身体のそこかしこが誘う赤を孕んでいるのも、今日、偶々寒いからに違いない。それ以外には何もない。
別に、歳を一つとったからではない。
女子は待つ生き物だ、と誰かが言っていた。自分からは言わない。頼まない。そうして期待だけを一人勝手に身の内に膨らませて、誰かが突付いて割ってくれるのを待つ。中から何が出てくるかは、割り方による。いつまでも割ってくれないと、やがて萎んでなかったことになる。
千代は、身体中に赤を滲ませて待っているのだろうか。けれど、自分はその一言をどうしても言うことができない。


三月二十五日。
忘れる筈もない。千代の誕生日の朝。







千代ちゃんお誕生日おめでとう!!若干遅いけど!!
こっぱ塚な阿部は本当に楽しいです。もっと思春期色を濃くしようかとも思いましたがやめました。
この頃ってでも既に高校野球始まってるよね……そこら辺はミラクル空間ということで一つ。
09/03/28