乾く、潤す


書棚と書棚に挟まれて、まるで本の海に溺れた心地がする。踏み出すたびに紙と埃の混じった匂いが一層濃くなり、璃奈の呼吸を緩やかに妨げた。切れかけたフィラメントが頭上で瞬くたびに、璃奈も眼鏡をずり上げて瞬きを繰り返す。本の背を追う作業は地味で、そうして璃奈をここではない道へと誘い込む。
(420.3A60……C30……C35.2……)
図書館は強く冷房を利かせていて、半袖の腕にひりひりと痛い。ここへ来るまでの道中、滲み出ていた汗は既に乾かされて、璃奈の身体を程よく冷やした。じきに、内側まで乾かされる幻想に襲われ、璃奈は少しだけ目を閉じる。干からびて、本の山の中でそっと息を引き取る璃奈。喉の渇きを訴える声すら出ない。動けずに地面にぺったりと張り付いて、水ばかりを欲しがって、まるで植物だ。もし、そうなったら、遊里は璃奈の頭にじょうろの水を撒いてくれるだろうか。芽が出るまで、期待に胸をときめかせてくれるだろうか。
(434.0G80……S24……S34……)
馬鹿げた夢だ。璃奈の瞳は機械的に本の背を追いかけ、数字を読み取っていく。指を滑らせると、乾いた背表紙が冷えた指先を掠る。気を取り直して深呼吸をすれば、肺の中が本の気配で満たされた。
(445.7F23……J50……K30!)
漸く見つけた。最後の一冊だ。背表紙をつつと辿って上に指を引っ掛け、するりと引き出す。埃と紙、印刷の匂いがまた生まれる。璃奈の身体は既にそれらに毒されてあちこちが古臭く、からからに乾こうとしている。
足許に積んでいた書籍の上に重ね、まとめて持ち上げる。両手にかかる重みは璃奈を少し興奮させた。腕の内側に内包されている膨大な文字が、璃奈を待っている。乾き切って動けなくなってもいいとさえ思ってしまうものを、璃奈は今抱えているのだ。
そうしてくるりと踵を返してその奥深い瞳を見つけたとき、けれど璃奈はあまり驚かなかった。遊里は気配のしない女の子だ。シャツの裾をきちんとスカートにしまい、タイを美しく整えて、まるで生きた気配を消している。
「遅いから来ちゃった」
事も無げにそう言って、遊里は口角を上げた。フィラメントが大きく瞬いて、遊里の顔が一瞬だけ翳る。何とも返せないので、ふうん、と璃奈は生返事をしてカウンターに向かおうとする。
「また随分借りるつもりだね」
遊里は当然のように璃奈の進路に回りこんで、目をきゅうと細めた。小さく首を傾げると真っ直ぐの髪が砂のように流れて肩口を滑る。璃奈は遊里のこの素直な髪が、少しだけ羨ましい。璃奈だって癖の強い髪ではないけれど、遊里のそれには遠く及ばない気がした。
「調べ物、だから」
応える声が少し掠れてしまう。だから、とりあえず、どいて。言いたい言葉はいつだって口に届く前に心の中で崩れて消える。璃奈は自分の口下手があまり好きではない。言いたいことを言えないのは、我慢に繋がるからである。
「おうおう、そうか」
遊里は細めた瞳を少し戻して、じいと璃奈の目線に双眸を重ねた。途端に璃奈は瞬きができなくなった。何だか息苦しくて、両手に抱える本の山を抱き締める力を込める。
「じゃあ、そんな真面目な璃奈ちゃんに、」
遊里の手が顔に伸びてきた。目は逸らせない。何かを人差し指と中指に挟んでいるようだけれど、見ることは許されない。遊里の細長く温い指は璃奈の左の頬を三度突付いて、それから唇に移った。
「んむ、」
そのまま口内に指先を突っ込まれて、思わず呻く。遊里が摘んでいたのは小さなチョコレートの欠片だった。チョコレートの甘苦い味と遊里の指先のしょっぱい味が舌先から口内に広がり、じわりと唾液が滲んでいく。粘膜の中で転がして、あっという間に融けていく感触を味わいながら、ふと、璃奈はもう目線が外れていることに気付く。
「ご褒美」
璃奈の口にチョコレートを含ませた手は、輪郭を辿って耳を撫で、それから頭のてっぺんを掻き回した。先ほどよりもずっと近付いた遊里からはチョコレートの香りが湧き出ていて、璃奈の瞼を重くする。書物の匂いで乾かされた体内が、みるみるうちに潤っていく。
「……ありがと、おいしい」
口腔に欠片が見えなくなったのを舌先で確認してから璃奈が言うと、遊里は突然両手を伸ばして璃奈の肩や頭を軽く抱き寄せる。子供をあやすようにそこかしこをぽんぽんと叩かれて、何となく璃奈は不満を抱いた。抱えている本を落とさないように持ち直して、そっと気付かれないくらい、遊里に擦り寄ってみた。近付くまではまるで人形なのに、触れれば遊里の体温はいつも濡れていて、璃奈は酷く安心する。
「璃奈はかわいいなあ。すきだよ」
何も含ませないままに遊里はそんなことを呟くから、璃奈は心臓のうねりを知られぬように本をより一層強く抱き締める。遊里からは絶え間なくチョコレートの匂いがしている。自分からもチョコレートの匂いはしているだろうか。このまま融け合ってしまえないだろうか。本の海は、いつだって、璃奈の妄想を駆り立てる。







芋さん宅学生絵茶にて、ユリーダム(笑)に書かせて頂きました。
オリジナルでゆりゆりを書くのは初めてです。色々新鮮。
眼鏡設定をもっと活かせば良かったと思っている!!
09/04/27