璃奈と遊里が初めて二頭の牝鹿になったのは、夏休みの埃臭い図書室の床の上だった。 牝鹿 きちんと結ばれたタイを丁寧に解く理性は残っておらず、けれど端を引っ張っただけでは不恰好に締まるだけで外すことはできなかった。璃奈は我慢が利かずに見えている首元の線にかじりつく。遊里は酷く汗をかいていて、少し苦いのは薄く塗った日焼け止めクリームだろうか。甘ったるさが増している。 遊里の長い指がもどかしげに伸びて自分のタイを外し、続いて璃奈の首元に伸びてきた。璃奈は不精なので夏場はタイを締めない。引きちぎられるような勢いでシャツのボタンが突破されていくので、負けじと遊里のシャツも寛げる。埃と汗が混ざり合ってべたべたと内腿にまとわりつくけれど、気にする理性はやはり残っていない。嘶き合って確かめる。 互いに肩を滑らせて衣服を落とし、逃すまいとしがみついて思いつく限りの場所に噛み付いた。遊里の長くきれいな髪が乱れてばらばらと降りかかるので、口内で絡まって喉に張り付き、咽ながらも歯形を刻み続ける。図書室は冷房が効かなくて、湿気がこもっていて、後から汗が湧いて流れ落ちるのが心地良くて仕方がなかった。遊里の熱が皮膚の上を這い回っていると考えるだけで、璃奈は思考を半ば手放してしまう。 二人でもつれながらきちんと掃除の行き届いていない床に転がり込んだ。埃臭さが舞い上がって、不意に璃奈の瞳に遊里以外の物体――書棚が映り、汗と熱でどろどろに潤っている璃奈は紙のかさかさとした乾きを思い出した。遊里の手の平が背骨を探している。夏休みの図書室は校舎の外れで、蝉の声が遠くて、璃奈と遊里の忙しない呼吸と床を這いずる音ばかり騒がしく響いている。 こんな遊里を見るのは初めてだった――遊里は、きれいに宝石箱にまとまってしまう女の子だった。 今更遅かった。遊里の肋骨を数えてみると、牝鹿は一際甲高く鳴いた。皮膚の上から骨を探されるたびに瞼の裏が白熱した。二人分の汗は余すことなく混じり合って、必死に融け合おうとしているようだった。挑発的に触れれば一層攻撃的になって、璃奈はまるで食べながら食べられている錯覚に陥る。 牝鹿は子供を持つと、凶暴になるという。 璃奈も遊里も、相手の何から、自分のどんな子供を守っているのだろう。 そこで漸く璃奈は思い出して、遊里の頭を滑る指でがしりと捕らえると、呼吸なのか悲鳴なのか分からないものばかりこぼす唇に噛み付いた。 「わたし達は牝鹿だったよ、」 「牝鹿、」 「そう、牝鹿」 水道で髪を流すと排水溝に熱がみるみる吸い込まれていった。どこかの部室にドライヤーが転がっている筈だったので、遠慮も知らずに璃奈も遊里も髪をきれいな水に晒していく。汚れてしまったシャツはどうしようもないので、そのまま着て帰るしかない。獣になるというのは、なかなかどうして面倒なばかりだ。 「でも、璃奈は違ったじゃないか」 水道から引き上げた髪をぎゅうと絞って遊里が呟き、璃奈が返そうとする前に素早く回りこむ。 「璃奈は、ときどき、人間の目をして、わたしを見ていただろう」 紙の匂いはもう追ってこないけれど、学校の廊下は相変わらず埃臭かった。璃奈は暫し瞠目して、遊里を見ることができずに頷く。髪から雫が滴る。 「そうかもしれない。わたしはときどき、本を思い出した」 「それでいい、」 耳の上を濡れた手に掻き混ぜられて、璃奈は首を傾げて遊里を見遣る。髪を濡らして優等生の影もない遊里は、けれど、もう確かにきれいな女の子の遊里に戻っていた。 「そういう璃奈が、いい」 囁かれることに璃奈がいつまでも慣れないのは、遊里の心臓を擦るような声音が原因に違いなかった。二人揃ってみっともなく髪を濡らして、体力を使い切ってしまった身体を引き摺る。早く、元の通りに乾かさねばならない。廊下を踏む足はやる気なく急ぐ。 牝鹿がまた目を覚まさぬうちに。 |