手当て


感情の読めない女だ。何も無表情だとか言葉に抑揚がないとかそういう意味ではなく、薄皮一枚をめくったすぐそこに広がる色すら推し量れない。ちょっとしみますよぉ、と消毒液を染み込ませた脱脂綿を容赦なく唇の端の傷に押し当ててくるその顔は笑ってはいないが、だからといって怒っているのでも楽しんでいるのでもなく、本当に特に何も感じていないようなのだ。少なくとも後藤にはそう見える。じわじわと沁み入る痛みを表情に出すまいと、結んだ唇の裏で歯を食いしばる。眉は元よりこれ以上ないくらいしかめている。
「後藤さんて、絶対彼女いたことないでしょ?」
まだ鮮やかな血を吸った脱脂綿を捨ててガーゼを切りながら、里中がこともなげに言う。頭のてっぺんから指先まで手入れの整った、値段の高そうな女の唇は笑わない。はさみの音を応接室の壁が機械的に跳ね返す。
「だから何だ、」
「はい動かないでー。ガーゼ貼るからじっとしててください」
顎を軽くつかまれて動揺する。相手がどんな敵でもかわしてみせる自信はあるのに、(気を抜いていたとはいえ、)マニキュアのつやつやと磨かれた細い指の動きについていけなかった。自分でもどんな傷口になっているのかわからないまま白いガーゼが肌にかぶさり、上を軽く押さえた恐ろしい指がするりと離れていく。
「普通に考えて、彼氏にしたいとか思えないし」
続いて別の脱脂綿に同じように消毒液を染み込ませて、ピンセットでつまむ。「左目、閉じてください」脱脂綿が思わぬ速さで近づいてくるので慌てて瞼を下ろすと、目尻がびりびりと痛んだ。アルコールのにおいが近く、脱脂綿をなすりつけられた肌がすうすうと落ち着かない。
「余計なお世話だ」
「そうですかねえ。あっまだ目あけないでください」
半分の視界の中で、大きい救急箱とその向こうの女の整えられた顔が遠近感を乱す。ガーゼが切断される僅かな衣擦れ。はさみの刃と刃が擦れ合う音が妙に心地良かった。
「後藤さん顔はタイプなんだけどなあ」
里中がさらりと爆弾を落とした。驚いて左目を開けそうになる前に、またもあの手首は後藤の顔を強くはない力で固定し、ガーゼを継ぎ足していく。熱の動きで、里中の身体が近いのが察せられる。
「もう少し中身がどうにかなってたら狙ったのに」
こめかみのすぐ上のあたりにぽつんと落として、里中は何事もないように身体を引いた。三つ目の脱脂綿を用意しつつ里中は「右腕まくってください。その破れてるとこ、結構血出てるでしょ」と色の見えない顔で目も合わせずに言って、後藤は限界を覚え始めた。女のあけすけとした言葉は狙いが定まりすぎて、逆に何を求められているのかが霧に紛れていく。はっきりしない物事は嫌悪してしかるべきだった。――会長も、鴻上ファウンデーションそのものも。
「せっかくイケメンに生まれたんですから、せめて顔はきれいにしておいた方がいいですよ」
「さっきから、君は何が言いたい」
声は冷たく装えたかもしれないが、羞恥が頬から耳へと駆け抜けた。外見を誉められるのは余計に居心地が悪かった。里中ははっきりとしない目線で確実に後藤をかたどる線を物色するように辿っているに違いなかった。
「会長じゃないけど、欲望にはそれなりに忠実に生きた方が得ってことですよ」
さらりと言って、里中が笑った。隙を突いて腕の大きい擦り傷に脱脂綿が擦りつけれる。情けない声が漏れた。笑った、と言うよりは、ほほ笑んだ。女の見た目だけは、ピンセットで細かなちりまで許さず拭いとったように美しかった。
奥歯が軋み、頬の上に集まった血液を押し出さんと眉を寄せる。一秒だって里中を見返すことができないのが死ぬほど悔しいのだと思う。その瞬間、この女を否定できるものなら何でもほしい欲望と、この女の抜け目のない胸元にすっかり取りこまれて楽になってしまいたい欲望が後藤の内側でせめぎ合い、それらは苛立ちという単純な形で瞬く間に具現化した。一つ一つ手に取って確かめてみる必要こそが、里中の指摘した話だったことに後藤は結局気付くことができなかった。口下手でも、感情を馬にした言葉は転がるように出てくる。
「欲望なんてないにこしたことはないし、進んで持つものなんかじゃないだろう! 欲望だらけだから、グリードに隙を突かれるし、俺達は闘ってるんだ。大体世界を守るのにそんなものがあったら、」
「あっ定時なのであたしはこれで」
壁の時計が濁った音で五時を報せるのと、脱脂綿が離れていくのは同時だった。屑籠に水分を吸った布が落ちる鈍い音がして、ハンドバックの留め金がぱちんとしまる。救急箱からは様々に切り取られた包帯がはみ出ていた。後藤に発言を許すことなく、豊かな髪を波打たせて里中は一礼し、ハイヒールをあまり鳴らさずに部屋を出て行った。
ソファーに腰を沈ませたまま後藤は暫く遮られた言葉の端を唇に引っ掛けていたが、漸く彼女が手当てを申し出た理由に思い至って苦い唾と共に言葉を喉の奥へ落とした。彼女における行動、言動、表情、全ては勤務時間内の出来事に過ぎない。
消毒液を吸ったばかりの傷口が疼いた。虚しく垂れた包帯が憎たらしかった。







余裕のある二十一歳とない二十二歳。
欲望との向き合い方を心得ている女と心得ていない男。
11/01/02