白い闇 「ああ、来たよ」 間隔をおいて吹き下ろす風はそこかしこでもうもうと雪煙を立ち上らせ、そのたびに頬の上に薄く氷が這っていく心地がした。噂の言う通り目の前の彼は亡霊なのかもしれない。僅かに雪の届かない穴倉の岩肌に身を預けた両腕は半袖から地肌を晒し、その生白い上に薄く踊る古傷達がより一層グリーンを逆撫でする。 「なんだ、そんなことを聞きに来たのか」 わざわざご苦労さん、と皮肉を交えて、グローブが傍らのピカチュウの頭を撫でる。厳かな灰色の景色に囲まれて尚微笑ましいその光景にグリーンは吐き気に似た違和を憶える。一体彼らはいつからいつまでここでこうしているのだろう。見間違えようもない赤いキャップのつばの下で黒い瞳が動き、レッドは幽霊ではないと確信を持つ。疑っているのなら、近付いて、触って、そうして確かめれば良いのにグリーンはどうしてかそれができなかった。格別に寒いわけではないけれど、両手はそうしていないと落ち着かないというように二の腕を庇う。 あれ以来コトネに会っていない。シロガネ山は極寒の極地だからとカイロやキズぐすりを持たせた。そうして、ポケギアは答えなくなった。 「勝ったのか」 聞くまでもなかった。 「うん」 こともなげに答える憎らしさもとうに失せて、彼らにとっての勝利は食事に似て当たり前に巡るものなのである。ピカチュウが何かを察して耳を震わせる。ちっぽけななりをしていても、この黄色い生き物が化け物じみているのは、他でもないレッドがグリーンに叩き込んだ。勿論彼の勝利を媒体にして。 切り出す言葉が見つからずに立ち尽くす。もう用はなくなった筈だった。負けたのならコトネは山を降りたのだろう。ジョウトにあるという実家に帰っているのかもしれない。そうした過ぎた節介は同時に仄かな希望も孕んでいた。 コトネなら、或いは、と。 「コトネちゃん、だっけ。面白かったよ」 レッドが唐突に呟いた。グリーンは敢えて押し黙った。彼の言葉を正確に拾えなくなって久しく、成長は着々と隔たりを育てていき、思い出が不気味なまでの美しさをまとっていく。 耳朶がじくじくと疼くのはピアスのせいなのだと今更のように気付いて、両耳のそれを外した。疼きは止まず、弱い風に煽られる。 「あんなに手こずると思わなかった」 独り言なのか、ピカチュウに向かっているのか、レッドが呟く。レッドは随分前にグリーンに届けるつもりの言葉をなくしている。何を言おうとしているのか感じようとは思わない。 赤いキャップの下で薄い唇が緩められた。瞳は貪欲に動いていた。戦慄せざるを得なかった。ピカチュウを撫でる手つきだけが昔と変わらない。 チャンピオンになって、登り続けて、彼は一体何を見たというのだろう。 シロガネ山の頂上は近付けば近付くほど感覚を奪って、生死を覚束なくさせる。手のひらを握るとピアスのピンが弱く皮膚を突いた。痛覚は生きている根拠にはならない。灰褐色の中でグリーンもレッドもピカチュウも、生きていなければ死んでもいない。 「もしコトネちゃんに会ったら、またおいで、って言っておいてよ」 レッドが少し顔を上げた。つばの影に隠れていたのは知らない人の知っている笑顔を見るのに似ていた。それ以上は怖くて拾えなかった。レッドはやはり昔のレッドのままで、変わったのは自分なのかもしれない。物を言わないコトネの電話番号が酷く恨めしかった。何が不満なのだろう。どうして不安なのだ。レッドの貪欲な瞳をもう一度見つめ返す権利も覚悟も義務さえも、あの娘はやはりこともなげに持っている(けれど、俺は、) 「……ああ、わかった」 とうとうコトネの失踪を切り出せなかった。辛うじて頷くと、レッドはそれきり喋らなかった。グリーンもまた言葉を見つけられなくなって立ち尽くす。ここに居続けることもさっさと帰ってしまうことも、どちらも許されていない気がした。ピカチュウの黄色い身体が静かにうごめいて、レッドに寄り添う。シロガネ山の昼は白い闇の深さに埋没していく。 |