朝帰り その日、慣れない堅さのアパートのドアがやけに静かだった。財布に入れている鍵を探りながら、祐太は冷蔵庫の中身を思い出そうとする。最近は仁村がこの家の食を管理しているので覚束ないが、最低でもパックの米と卵さえあれば何とか腹は満たせる。早く寝れば夜に腹を空かせるなどという事態にも陥らずに済む。明日は一限だから、早く寝てしまおう。一人暮らしが久しいと、ドアの前に立つだけで察せられるのだ。施錠を解いてノブを回すと、春先の甘い色の夕日が玄関先のフローリングまで伸びているのが目に入った。そうしてキッチンでは、水垢の浮くこともなくがらんと乾いたシンクが黙っていた。 (出掛けたかな、) のそのそと靴を揃えて冷蔵庫を開けると、卵数個の他にだいぶ小さくなったキャベツとまだ残りの多いウインナーの袋も見つかった。残りが二枚の食パンまである。ジャムは棚にあった気がする。胃袋がきゅうと縮まったが、まだ五時の鐘も鳴っていないことを思い出し、祐太は鞄を放り出してベッドに寝転んだ。そのまま寝てしまわないように瞼は閉じず寝返りを打つと、部屋の片隅に律義に畳まれた布団の上にいつもは置いてあるスウェットが見当たらないことに気付いた。 (わりと、嫌じゃないんだよなあ) さわやかで優しそうな面持ちに反して当然のように祐太の家に布団を持ち込む図太い同期のことを、祐太は特に迷惑に思わなかった。食事を作ってくれるし、話し相手にもなる。とっている授業も似通っているので勉強の相談もしやすく、おまけにサークルも同じなのだ。長い時間を共に過ごしているにもかかわらず、仁村に対して特に腹立たしく思うこともないのは、或いは、共に並んでいるだけで互いを見せ合っていないということでもあるかもしれない。事実、祐太は今仁村がどこにいるのかを知らない。 腰が震えた。バイブ音の長さからメールであることを察しつつ開くと、仁村の名前がディスプレイに浮かび上がる。そこには、夕飯を作れないことを詫びる一文に絵文字が添えられていた。今日、きっと仁村は帰らない。 祐太はベッドから起き上がると、再度冷蔵庫を開けて中身を確かめた。食べ物のにおいを乗せた冷えた空気が鼻の頭や頬を掠め、祐太はそっと中から卵とキャベツを取り出した。 夜八時のベッドの上は退屈だ。洗濯物やゴミをまとめ、洗った食器を拭かなければならないのに、祐太の身体はみるみるうちにシーツに沈んでいく。隣室を憚って音量を抑えたテレビから笑い声が上がる。そう言えば風呂に入って歯も磨かなければならない。思い至った途端に身体中がぬめるような心地がしたが、買ったばかりのシーツはそれをも呑みこんで祐太をくるめるようだった。 色白の骨ばった手が肋骨を辿りながら乳房に辿り着く。投げ出された名前のない太ももをパステルカラーの優しいブランケットがあたため、茶髪の前髪から汗が一粒転がり落ちる。あたりは甘苦いにおいに満ちて、高い息使いと低い声だけが響いている。 詮無いことだ。祐太はごろりと寝がえりを打って追い払うように目を閉じた。 カーテンの向こうは既に薄明るかった。目覚めた瞬間に失敗したことを悟らせる明るみだ。洗濯物、ゴミ、食器、目と鼻の先のしなければならないことが浮かんで、閉じようとする瞼を駆ける。がたんと重い音がした。ドアが軋んでいる。祐太は飛び起きる。毛羽立ったカーペットが足の裏に絡みつく。喉の粘膜が渇いている。 「……ただいま、」 「……おはよ」 壁に手をついてきれいなワイシャツを緩くまとう仁村の背後でドアが閉まった。渇いた喉を通り過ぎて溜め息がこぼれ落ちる。整えられている眉毛の上には擦り傷のような血が滲んでいて、洗いたてのワイシャツに対してどことなく汗や疲れのにおいをほのめかしているのは何ともちぐはぐで後ろめたかった。仁村はばつの悪そうに口角を上げて靴を脱ぎ、すぐ目につくシンクを見て眉をしかめる。 「なんだ、食器ぐらい片付けなよ」 「女遊びはほどほどにしないと死ぬぞ」 声が重なり、目線が合う。同時に吹き出して、小さな衝動が腹の内側で踊った。起き上がったついでに、祐太は殆ど乾いている食器を布巾で拭って片づける。今しないと寝てしまう。仁村はのそのそと上がり込んで祐太の後ろを通り過ぎ、普段は乗らない祐太のベッドにどうと倒れ込んだ。 「ああねむいなあ、つかれちゃった」 「それはそれはお盛んなこって、」 「人聞き悪いなあ、俺はかわいい女の子を、」 「おもてなししただけ、だろ?」 振り返って笑うと、茶髪の間から柔らかく細めた目が見つめて、くくく、と呻くように笑い返してきた。そうして生臭い手をまるで赤子のように丸めてブランケットをつかみながら欠伸を一つ落とした。 何度目かの朝帰りである。 |