※六巻後設定です。











鴉の牽制


「それじゃあ、また明日」
「うん」
「気を付けて帰れよ」
「うん」
「風邪が流行ってるみたいだから体冷やすなよ」
「うん」


答える声はか細く、日の落ちたばかりの冷たい空気を僅かに揺らした。枯れ葉の擦れ合う音にすら融けてしまいそうだ。放課後のざわめきは遠く、女子寮の黄色い明かりがこぼれてすぐそこまで迫っている。「おい、聞いてるのか」あまりに気のない返事に深行は眉をひそめて横に並ぶ泉水子の顔を窺い、思わずそっと息をつめた。そうして、俯いている泉水子の耳を染める赤みがそのまま冷たい空気を伝い、深行の頬までもが刺さったようにじんじんと疼いた。
「き、きいてるよ……」
やわらかにささやく、薄く色づいた唇から目が離せない。


三度目だ。女々しく数えてしまっていることに苛立つ心も、男子寮へ向かう暗い道の底冷えにあてられて不思議と毛羽立たない。何度目まで数えていられるだろうか。深行は瞼を緩く閉じて顔の周りから消えない熱さを振り払おうとする。それでも、今しがた別れた泉水子の潤んだ目じりや冷えばかりでは済まされない赤みを消し去ることはできない。慣れてない、というのはなかなかどうして反則だ。何より泉水子のあの顔を見ているのがたったひとり自分だけであるという事実が深行の心をくすぐり続けた。
これで三度目なのだ。思い出すたびに腹からこそばゆさが駆け昇り、口元の緩みを抑えることができない。これでも我慢のきく方だと思っていたのに、これではいつ泉水子を泣かせてしまうだろう。傍から見て情けない限りであるのは重々承知でも、直しようがないのだ。いつでも思い出せる、泉水子の少し乱れた前髪、こらえるように閉じた瞼、つややかな頬、そして、緊張に引き結ばれた唇――。
「意外だなあ」
耳元を風切り羽が掠めた。驚いてひゅっと息をのむ間に右肩に細い爪が食い込み、黒い羽が視界の端で散る。
「君っておくてだったんだね」
「突然何の用だよ、和宮。驚かせるな」
横目で肩の上を見やると、見慣れたカラスのくちばしが細く開いて笑っていた。最も緩んでいた瞬間に狙い澄ましたように現れたことに腹立たしさと気まずさが増す。自分は冬の暗がりにかこつけてどんな顔をしていたのだろう。鳥の目はごまかせない。
「突然って、何のことだい。相楽深行、僕はいつでも君についているんだよ」
「おい、だからお前何しに、」
「いつでも、ね」
深行の言葉を遮って、和宮が強調する。不意に嫌な汗が首筋を濡らし、深行はつい数十分前の出来事が脳内を巡るのを感じた。どの映像にもいとおしいおさげ髪が舞い、深行のいざなうままに寄り添っている。そして、最後にはゆっくりと顔が重なっていく。先ほどは高揚を呼んだその回想は、今やこそばゆく暖まっていた身体から熱を瞬く間に落としていく。
「おい、まさか、」
「君が案外おくてだったから安心しているけど、」
深行の肩を蹴ってカラスが飛び立つ。故意か事故か羽が深行の頬をはたいて、黒々と陰を落とす木にとまった和宮は深行を見下ろした。制服の下に冷たさが広がっていく。
「いくら鈴原さんがかわいいからって、へたを打てば僕がいることを忘れないでほしいな」
暗がりに和宮の表情は窺えないが、笑っているらしかった。当たり前のように全て見られていたのだ。深行は羞恥と怒りと諦めがないまぜになったまま睨み上げ、精一杯言い返す。
「悪趣味が過ぎるな。神霊ってやつは」
「鈴原さんでふらちな想像をしている君が言うの?」
間髪入れず言い返され、深行はぐっと息を呑みこむ。言葉でも立場でも勝とうと思ってはいけない。嘘も通らない。
「してない、とは言わないが、……節度は守るつもりだ」
「そうしてくれないと困るよ」
和宮は楽しそうだった。深行をからかいたいがために現れたようにも感じられた。全く行動が読めない。暫く背後の木々の隙間からこぼれる闇と融け合う和宮を睨んでいたが、詮無いことに気付いて深行はそっと溜め息をついた。
「ひとつ、いいか?」
「なんだい、相楽深行」
「おまえは、鈴原のことが、恋愛として、好きなのか?」
ばさばさと騒がしい音を立てたのが、和宮なのか風なのか判然としない。深行がじっと目を凝らせば凝らすほど、和宮の姿はぼんやりと滲んで見えなくなる。
「きみは神霊というものをまだあまりよく理解していないみたいだね」
声だけが近い。和宮はもうわからない。和宮が何となく逃げたがっている気配を覚えて、深行はそっと歩き出した。立ち話をしていても身体が冷えるだけだ。どうせ気付いたら深行の影に寄り添って、また泉水子とのやわらかな時間をそっと覗き見るのだろう。考えただけで頭が痛くなるが、さりとて打つ手も思いつかない。今、深行がしなければいけないのは、一刻も早く寮に戻ることだった。
「一生かかってもわかるとは思っていない」
「おや、殊勝だね」
「勝てるとは思う方がおかしい。俺は寮に帰るぞ」
「ふうん、そう」
声も霞んできた。一歩踏み出すごとに一度落ちた体温が少しずつ戻ってきて、深行は冷静さも戻るような気がした。和宮に監視されているのは仕方ないかもしれない、と開き直る。泉水子との時間に割り込まなかったのは、和宮なりの配慮なのかもしれない。(神霊に配慮、という概念があるならばの話だが)扉を開きつつ最後に振り返ると、木々の黒々とした屹立が寒風に震え、それがどこか羽のはばたきを連想させた。深行は身震いひとつを残して、扉を閉めた。


その日の夜、真夏のいびきを背景に、深行は数時間前に唇に浮いた優しい感触を思い出すたび、和宮の羽の音を空耳で聞いた。和宮の戒めは暫く効くような気がする。







深行くんって泉水子ちゃんになにかしようとしたら、その一部始終をすべて和宮くんに見られているんだなあと思った話。
和宮くんの心中を察するに、深行くんの目玉くらいくりぬきたくなると思います。
13/10/06