不実に まだ夕方と言える時刻の筈なのに、辺りは早くも薄暗くなり始めている。群青のセロハンを通したように思える視界の中、沖田総悟は少し前を歩く小柄の影をぶらぶらと追っていた。外気に触れている頬は怪我をしても気付けないのではと思うほど冷えている。コートのポケットに突っ込んだ指は持っていない懐炉を欲しがり、冷たさに悴んだ。 こんなに寒いというのに、目の前の女は平気でミニスカを履きこなし、薄暗い中に白い足の滑らかな曲線をぼんやりと浮かび上がらせている。これで腹巻も何もしていないというのだから、相当腹が丈夫に違いない。いや、腹が丈夫なのは重々承知だ。自分の財布がよく知っている。何度この女に奢らされたか。そして、食べる量の半端なさ。あの大量の料理は、この細い胴回りのどこに消えているのか本気で悩むところだ。 その細い胴がくるりと回って、神楽が振り返った。鼻に乗せているだけで重そうな瓶底眼鏡がこちらに向けられる。伊達眼鏡らしいが、外そうとしない。外した方が数倍可愛いのに。 「総悟ォ、何テレテレ歩いてるアルか。お前は亀アルか」 口から飛び出る言葉は可愛さの欠片もなく、最早聞き慣れたわざとらしい語尾は、注意する気も失せてしまった。 「亀はわりと歩くの速いんだぜ」 答えながら、少し大股で近づき、神楽の横に並ぶ。視線を落としてみれば、彼女は自身の息で眼鏡を白く曇らせていた。全く、この眼鏡は本当に邪魔だと思う。 ポケットから右手だけを出す。冷たい空気に触れて思わずポケットに戻しそうになるが、辛うじて堪えて手を伸ばし、神楽の眼鏡に中指を引っ掛けて掬い上げるように顔から取り払った。 唐突な行動に、神楽は首を傾げながら総悟を見上げる。よく見てみなくても、神楽は整った顔立ちをしている。童顔ではあるが、長い睫毛は形が良く、薄く色づいている唇も可愛らしい。驚くような白い肌は暗い中によく映えて、病的な印象さえ与えた。 「何のつもりアルか? その眼鏡大事なモンだから壊すなヨ!」 「へいへい、銀八に貰ったんだろィ? 分かってるっつーの」 不満そうに眉を寄せる神楽を片手でひらひらと遮り、よく見ると傷だらけの瓶底眼鏡を目の前に掲げる。度が入っていないのに瓶底である不思議な眼鏡だが、相当使い込まれているようだ。横に目をやると、眼鏡に遮られてよく見えなかった透き通る瞳が街灯に反射しててらてらと光っていた。 「寒いアル」 マフラーに口元を埋めて、神楽が呟く。まあなァ、と総悟は応えて目の前にぽつんと建つ目的地を見上げる。別れたくないからゆっくり歩いていたが、それでもいつかは着いてしまうのだ。 「ここまででいいアルヨ」 オンボロのアパートの階段の前で、神楽は笑う。総悟の手から自然な動きで眼鏡を奪い取り、元の位置に掛け直して踵を返す。小さな革靴がかんかんと音を立てて凍りつく階段を昇る。総悟はそれを黙って見送る。 「おう、神楽か。お帰り」 突然、階段を昇った先にある一つのドアが開いて、中から綿入れ半纏を羽織った銀髪頭が現れた。気だるそうな瞳はまず神楽を見て、それから階下の総悟を見下ろす。 「銀ちゃん! 寒いから中にいていいアルヨ!」 見えなくても分かる。神楽の顔がぱっと輝いたのが。 条件反射なのだろうか。 慌てたように歩調を速めて上がる神楽の腕を、階段を飛び上がって掴んで引き止めた。少しバランスを崩す神楽の腕をめいっぱい引いて、自分の腕の中に収める。上からは相変わらずやる気のなさそうな目線が降って来る。真冬のコンクリートは側に寄るだけで冷たい。 「何アルか、総悟!?」 振り返る神楽の顔には怒ったような表情が浮かび上がり、瓶底眼鏡を越えた向こうからは非難の目線が突き刺す。それでも止められない。 抗議の言葉を吐かんと開く唇に向かって、乱暴に自分の唇を重ね合わせる。少し抵抗をされるが、やがて神楽は波が引くのを待つように黙って総悟の口付けを受け入れる。 見下ろされる視線を感じる。分かる。いいのだ。見せ付けてやる。 こいつの彼氏は、俺なんだ。お前じゃない。 溜息をつく音がする。苛々する。もっと求める。 眩暈がしそうだった。寒くて熱い空気に翻弄されて、螺旋型に溶けていく。 ようやく気が済んで唇を離したのは、それからどれほど経った頃だろうか。神楽の頬には寒さ以外のものである赤みが差し、目は少し潤んでいた。キスの名残を光らせる唇が、怒る。 「もう、いきなり何アルか! キスならさっきもしたアルネ! 大体、ぎ、銀ちゃんがいるのに!」 分かっていない。この女。 銀八がいるからこそ、だろうが。 おどけるように唇を吊り上げ、総悟は神楽の頭を突っついた。 「いや、ここで別れたら暫く会えないかと思うと寂しくて、なァ?」 さり気なく上目遣いに銀八を見上げると、呆れたような視線が向けられた。にやりと笑えば再度溜息をつかれる。そうだ、呆れて納得しろ。常に好きな女を別の男に取られる危機に焦っている俺に呆れて、それでも神楽は俺の彼女であることに納得しろ。 「四日後にまた会う約束したアルヨ」 「四日も会えないなんて拷問に近い仕打ちでさァ」 へら、と笑いかけると、神楽も釣られて笑い返す。今度こそ小さな白い手を振って階段を上まで昇りきり、「じゃあネ」と言って銀八と共に家の中に入った。 ぱたんとドアが閉まるのを皮切りに、総悟はくるりと背を向けて家路を急ぐ。先ほどまで身体の中心で火を熾されたように熱かったのが嘘のように、肌寒かった。ポケットに手を入れ、夜空を仰ぎ見る。痛いくらいに澄み切った空気の中で、地球まで光を届けることのできた数少ない星が粒となって煌めく。 寒風が耳元を通り過ぎ、熱を冷ます。歩調はただ速くなるばかりだ。きっと自分は逃げ出したいのだろう。 だが、神楽と付き合う限り、これは一生逃れられないのだ。 夜の冷気は唇の表面から彼女の軌跡を攫っていく。 |