君の気付かんことを 人工的な温さに裸足を擦り合わせて、銀時はこたつ布団を引き上げた。何年も使ったせいですっかり染みや綻びの見える代物だが、捨てるには勿体無いし世話になっているから綿だけになっても使おうと思う。一つ一つの染みは銀時がつけたものではないものがそれなりの数を誇るのだが、誰のものかと言えば、この家に住み着いてからかれこれ五年か六年になろうかというじゃじゃ馬怪力娘の行儀の悪さである。因みに、この家によく出入りしているもう一人の地味な青年は地味に箸を上手く使いこなすので滅多にこぼさない。盛大にこぼして散らかして赤ん坊の世話よりも手のかかるのは、この家で唯一の女性である一人だけなのだ。 嫁に行くときに難儀だろうからと何度も直してやろうと努力したが、胃袋拡張娘は何度注意しても空腹時に耳を貸すことはない。寧ろそんなときは銀時こそが空腹で余裕がない。だから、花咲く年頃で彼氏が出来るようになっても神楽は坂田家のこたつ布団に歴史を染み込ませ続けるのだ。 背後でだんだんと足音がして、芝居の始めのように勢いよく襖が開けられた。 「ふいーっ、きもちかったアル! 風呂はいいねェ〜」 オヤジ臭さの半端ない科白もいつまで経っても直らない。こんな娘を好き好んで恋人にしたがる男などあの栗頭以外にいないだろうと半ば本気で思う。何かあってあいつを逃してしまえば、神楽に次はないのである。 風呂上りの神楽が銀時の横に回りこんできた。引き取ったときよりも幾分か伸びた髪の先から水を滴らせ、神楽は暫くふらふらと歩き回っていたが、銀時の指がテレビのリモコンに触れるのを見咎めると真っ先に銀時の胸元に飛び込んできた。 「うおっ」 娘の身体が羽のように軽いなどと言うのは、娘の身体など触ったこともない可哀そうな男の妄言である。花咲く年頃の娘神楽は、それはそれは重い。幾ら銀時に腕力があろうとも、重いものは重いのだ。人並みの体重通りに、神楽はとても重い。 神楽はそのまま銀時の胸元で小動物のようにもぞもぞと動き回って座りのよい場所を探し、緩く胡坐を掻いた銀時の足の上に尻を乗せて、冬用の甚平に身を包んだ銀時の胸元に背を預けた。有り体に言って、神楽は銀時を座椅子のように扱っている。 「……神楽さん、神楽さん、重いんですけど」 身体をぐらぐらと揺らして振り落とそうという素振りを見せると、神楽は銀時の手からリモコンを奪ってそのままテレビをつけながら答えた。 「年頃の娘に言う科白じゃないネ。却下アル」 何をだ。 銀時は溜息をついた。神楽はこうして銀時に背を預けてテレビを観るのが大好きである。銀時としては、足は痺れるし下手に動けないし何かと騒ぐ神楽がうるさいしであまりよろしくないのだが、年齢が上がっても子供じみている部分だけは成長してくれない神楽は聞き入れることがない。まあ、取り立ててうるさく言うほど辛いことでもないので甘んじて受け入れることが多い。 風呂上りで濡れている神楽の髪からは、風呂場の匂いが立ち昇っていた。コイツ、本当に頭洗ったのか。面倒で水で流すだけとかにしていないか。こういうとき、娘の髪からは普通シャンプーやらリンスやらの匂いが漂うものではないか。密かに鼻を利かせる銀時の身体の内側で、神楽はテレビを観ながら大口を開けて笑っている。 銀時の胸元から下腹部にかけて当たる神楽の身体は、どこもかしこも柔らかかった。昔からやたらと愛玩動物のように柔らかい生き物ではあったが、今の神楽は確実に子供から変わろうとしている。線の丸さはいよいよ一部分のみに如実に出てきて、時折覗く横顔からもどこか大人の寂寥が見える。背も少し伸び、ちらりと覗く足首の子供のものではない細さは時折眩しい。 仕草や性格は相変わらずなのに、神楽はどんどんと成長していく。神楽だけではない。新八だって背は伸びるし、声もますます大人びていく。元の性格故の落ち着いた物腰も板についてきた。中身にも変化がある分、新八の成長の加減の方が如実であるかもしれない。 銀時の周りにいる子供達は、最早子供達と呼べない存在になろうとしているのだ。 「何、この芸人。まだ出てアルか。つまんないのにナ」 神楽が握っていたリモコンをぞんざいにテレビに向け、チャンネルをぱっと変える。気持ち悪いくらい爽やかな青春ドラマが映し出される。神楽はヒロインの科白と挙動にぶつぶつと突っ込みを入れながらそれを見始めた。 見ながら神楽は両手を後ろに回して髪の毛を束ね始める。その動作は慣れたもので素早く、適当に梳いて整える白い指は立派に女の手であった。 白く上気した柔らかな項が、桃色の髪の間を縫って表れた。 銀時の知らない女の項。 「なあ、神楽。降りない?」 反射的に口に出してしまった。これ以上、子供ではない彼女を酷く触れ合う間近に置いておくのは、禁忌に触れることのような気がした。 「何で?」 神楽は振り返らず、相変わらずテレビを見たままだ。無機質な画面は、好きな男が別の女と話しているのを見て不安げな顔をするヒロインを大きく映し出す。まったくもって、嫉妬とは醜いものであると思う。 「銀さん足痺れたの。お前重い」 「却下アル」 言って、神楽は、わざとなのだろう、少しずり落ちていた尻をずらして、もっと深く腰掛けてきた。銀時の手を手摺りに見立てて自分の手を絡ませ、後頭部を胸にこつんと当てる。呼吸のリズムが分かる感触は生々しい扇情を醸していた。 自分は、この手のことはわりと歯止めの利く方だと思っていた。実のところ、神楽を引き取った遠い昔にも思えるあの日、先ず脳裏を掠めたのはロリコンの四文字であったわけだが、人前で鼻をほじり始めた神楽を見ていれば何があっても間違いが起こることはないと確信し、そのままいつの間にか親子のようになって、気付いたら神楽は思わぬところまで育っていた。 相手は神楽だ。立派に彼氏もいる。何より星海坊主がいる。 けれど、それらの事実を覆し得る程に、神楽のこれまでに置いて最も近い位置にいるのは自分であるという事実が、銀時の心中に危険な影を差すのだ。 「もしも、さあ――神楽、」 神楽は答えない。艶々の髪を太陽に透かしながら、テレビの中のヒロインは好きな男を求めて駆けている。何ときれいな泣き顔だろう。嘘泣きに違いない。 「こういうとこ、沖田くんに見られたら――って、思わない?」 「思わない」 神楽は即答した。 「別に総悟が見たら、何かアルか?」 ヒロインが男の下へと辿り着いた。男が振り返り、ヒロインは肩で息をしながら真っ直ぐ男を見つめる。切れ切れの息の中で紡がれる告白の言葉。赤裸々に綴る己の心情。 今まであれ程悶々と腹に抱えていた癖して、よくもまあここまで躊躇いなく全てを語れるものだ。全速力で走ったのと激情とで判断力が失われているということもあるが、相手を目の前にして何故口を噤んでしまうことがないのだろうか。 神楽を前にして、銀時は既に心中を語れなくなってきている。近いという自負は最早崩れようとしているのだ。 昔は当然のように抱き抱えることのできた身体は、もう触れるだけでも心臓に悪いものに成り代わっている。 あと一体何年、自分は神楽とこのようにしていられるだろうか。いつか、神楽が気付いてしまう日が来るだろうか。一刻も早く来てくれなければ困るのに、来てしまうことに恐怖を覚える自分を銀時は気付く。 神楽が、女の憂いを漂わせる溜息をつく。 |