本能の同じ かんかんと外階段の鉄骨が鳴ったので、神楽は兄のしなやかな足の運びを辿ることができた。帰ってきたのだ。鍋の中を掻き回す手は休めず、スープの水面から昇る熱が顔を炙る。階段は十五段あって、勝手に四拍子に刻みながら聴いていると、いつものように最後の足りない一拍の代わりにドアが開く。 「ただいま」 「おかえり」 短い挨拶が交差して、神威が買ってきたものを粗末な机に置くと、紙袋のがさりと乾いた音が机の表面と擦れ合った。神楽は振り返らず、スープの中のなけなしの具を使い古しの鍋の中でぐるぐると回し続ける。部屋の端の軋む床に番傘の先が当たる音と忙しない衣擦れがかぶる。神威は外に出るときは気象に拘わらず決まって外套をまとう。何を隠しているつもりなのか分からないけれど、そこからは時々神威の気配の上に乗って知らない血が臭い、そのたびに神楽の心臓の近くをざわざわと騒がせた。 番傘も外套も手放して、神威は少しの間動かなかった。油のまとわりついた換気扇がごうごうと回り、神楽はやはりスープだけを気にしている。耳の端をかじられた。神楽はいつになっても、意図して気配を消してしまった兄をどうしても辿ることができない。 「神楽、」 囁きと同時に密着する背後の存在が確かになる。長い指が襟首をそっと引っ張って開け、地肌が爪になぞられる。狙われる筈がないのに、頚動脈の上を通るときが一番落ち着かない。神楽のまだ動く指がコンロの火を止める。ざわりと湯気が立ち昇って、薄味の匂いが白く目に沁みる。 神威の蛇のように薄い舌がさっと一舐めして、神楽の首筋に犬歯の先が刺さった。神威は大体を知っているのだ。どこを切れば、神楽は死ぬのか。どこを咬めば、死なないか。滲む液体を舐め取られる。吸血に満たない行為を神威はよく繰り返している。それから、こうして自身を煽るのだということを、神楽は教えられなくても知っている。鉄臭い苦味は目的に拘わらず忠実に夜兎の興奮を呼ぶ。 同じ血が流れているのだ。 頭蓋の中で血流が逸るのを俄かに感じて神楽が息を吐くと、弱った獣の鳴き声が混じった。舌の上で血を転がし続ける兄の邪魔をしないようにゆっくりと振り向く。初めて目が合った。驚くほど同じ色をしている。 そっと唇で唇を突付いた。口腔が薄っすらと血生臭さを帯びる。顔と顔が近付けば相手の呼気を拾える。気配は血液を含んでより濃厚になっていく。 薄い舌同士を擦り合わせると、兄はどこまでも兄で、やはり自分と同じ味がした。 「笑わないで、聞いてネ」 肉を無造作に潰す手指が脇腹や背中を這っているのは、思えばおかしな心地がした。自分の地肌も実はこの手に潰されているのではないだろうか。首元に埋められた同じ色の髪は応えない。肌と肌が擦れるのは驚くほど気持ち良くて、だから神楽は口ばかりを動かす。 「私、昔、ずっと前は、」 乞われた気がしたので、手の平を伸ばして硬い肩の骨をなぞって肩甲骨の輪郭を見出す。神威の薄い舌は食事のときとあまり変わらない動きを続けている。同じようなものだ。夜兎にとって、食事も、情事も、戦闘も。血肉が本能に近いだけなのだ。 「いつか、銀ちゃんの子供を生むんだと、思ってたアル」 爪の端が薄く皮膚を舐めて、神楽は、ひ、としゃっくりのように声を上げた。神威は少しの間やはり変わらず神楽の地肌に手の平や舌や吐息を這わせていたけれど、やがて、ゆっくりと眼の色に平静を宿しながら神楽の顔を覗いた。舌が伸びて、舌を掬う。鉄臭くない血の味が唾液と共に回る。 「そうか、」 「ウン、」 「そうだったんだな」 神威の平静は、神楽がそっと歯を立てた神威の舌先に滲む液体でみるみるうちに失われていった。煽りは煽りを呼び寄せて、互いをもう兎としか認識できない。兄も妹もない。そういうものだ。本能は濃い時間を経て一族の正しさを受け継いでいる。 スープはすっかり冷めているらしかったけれど、食欲を満たす前にあがなわなければならないものを、二人は夢中で貪り続けている。 |