零崎人識の受難 部屋に着くなり、零崎人識はおざなりに整えられたベッドへと身を沈めた。さしもの殺人鬼も赤き制裁を相手にしては疲労も限界にあり、また碌に食事を取らなかったつけが回って軽い貧血さえ起こしていた。 一方、手首がなく包帯をきつく巻かれた両手から血を滲ませている無桐伊織は、特に疲れた様子もなく人識の後を追って部屋に入り、人識が倒れこんでいない方のベッドにちょこんと腰掛けた。足をもぞもぞと動かしてスニーカーを脱ぎ捨て、膝を器用に折り曲げてベッドの上に畳む。膝頭に顎をくっつけ、向かい側のベッドに沈んだまま動かないでいる斑模様の頭をじっと見詰めた。 「ひとしきくーん」 子犬のような声で呼ばわってみると、 「……うー」 話しかけるなと言外に込められた、掠れた怨嗟が返ってきた。相当お疲れのようである。相変わらず顔はベッドに埋めたまま、ぴくりとも動こうとしない。死んだように伏すその背中を何とはなしに伊織は眺めていたが、思いついたことがあったのでスニーカーを足につっかけ、人識のベッドに近づいた。 のそりと膝をベッドに乗せて這い登る。つっかかっていたスニーカーがころんと床に転がる。伊織は構わずにのそのそとベッドの上を膝だけで移動し、うつ伏せになっている人識の身体の脇にちょこんと座った。 こうして全体を見ると、何とも短い体躯である。背中や腕についた筋肉を見ると少年らしさをまざまざと思い知らされるのに、それでも尚幼さばかりが残る小ささだ。伊織はこれまで自分よりも背の低い男子というものを幾人も見てきたが、ここまで歳と背のギャップが激しい人物は初めてかもしれない。 数秒間沈黙した後、人識がちっとも顔を上げないのを確認した伊織は、その踵を持ち上げて人識の腰の上に振り下ろした。 「ぐぇっ!」 当然の如く人識はえび反りになって跳ね起き、伊織を軽く突き飛ばす。突き飛ばされることは計算の内だったらしく、受け流すように伊織は横に倒れ、ベッドから落ちることだけは免れた。 「……てめっ、俺を殺す気か!」 ぽすんと軽い音を立てて倒れている伊織の襟首を掴んで乱暴に引き起こし、人識は凄む。一方、人識くんの顔は刺青のせいで怖くなるんだなあと呑気に考えながら、無理に身体を起こされた伊織は足を動かしてバランスを戻しながら首を傾げた。 「えー、だって、うちのお父さんは、疲れたときにこうやると凄く喜んでましたよ? だから人識くんにもサービスしたんです。ほらほら、女子高生の足なんてそうそう味わえるものじゃないですよう」 立て直した足を人識に寄せると、人識は盛大に眉を顰めたまま襟首を掴んでいない方の手で軽くぱしんと伊織の膝を叩く。喉の奥に溜まった空気をくはっと鉛玉のように吐き出して、伊織の襟首を再度持ち直して引っ張った。 「俺は腰痛に悩む中年親父か! 今すげー疲れてるんだよ! もう伊織ちゃんのせいでくたくただ。余計な体力使わせんな。殺すぞ」 「またまたぁ、ホントは女子高生の足に触れて嬉しいのに照れちゃってー。かーわいいですね人識くんは。いくら小さいからって見栄張っても可愛いものは可愛いですよう」 「うるっせぇ! 身長のこと今後口にしたら手首の傷広げるぞ」> 「なぁーに言っちゃってるんですか人識くん。そんなことしたら天国からお兄ちゃんが落ちてきて人識くんにジャーマンスープレックスですよ!」 「兄貴は二十人目の地獄だしジャーマンスープレックスなんざやったところ見たこともねぇし! ついでに武器はお前が持ってるしな!」 いつの間にか漫才のようなノリになってきて、襟首を掴む人識の指も緩んできた。伊織はそれを首を揺らめかせて外すと、にっこりと笑う。 「大丈夫、お兄ちゃんが現れたら、わたしは喜んで武器をお兄ちゃんに渡すつもりですよう。自分が一番大切ですしね?」 「あっぶねーこと言うな。つーか寝ろ。もうさっさと寝ろ。いい子と女子高生は寝る時間だ」 緩く振りほどかれた手を犬を追い払うように振って伊織をいなすと、伊織は意味深な笑みを口元に浮かべて人識の顔を覗きこんだ。長い睫毛に縁取られた目が一度瞬きをして、息を吹き込むように人識に言う。 「人識くん、わたし、トイレに行きたいんです」 「は?」 行きたければ行けばいい、という反論を呑み込む。伊織の笑顔はそれだけでは済んでいなかった。 「でもでも、わたしったら手首がないし、これじゃあ下着も下ろせません。このままじゃわたし、高校生にもなってお漏らしなんていう恥ずかしいことになっちゃいます」 いよいよ、伊織の顔は嫌な笑みで一杯になった。人識は冷や汗を背筋に感じながら、伊織の続く言葉を待つ。 舌で唇を湿らせた伊織が、人識が最も恐れていたことを頼む。 「トイレのお世話、してくれますよね?」 あ、それとも女子高生のお漏らしとか見たいんですか? あーららあ、人識くんってばマニアック! と、伊織は暫し硬直した人識に向かってくすくすと笑った。 その昔、匂宮の秘蔵っ子に翻弄される日々を送っていたため、人識は確かにその手の耐性はできていた。また、十九にもなって今更女子高生のあれこれに欲情することなど何もないし、何より相手はあの無桐伊織である。 それでもかなりの抵抗を感じてしまうのは、やはり人識も人間失格なりに人間的な部分を持っていたということだ。 あの頃人識があれやこれやの世話をしていた腕が不自由な少女は貧相なくらいに発展途上の身体だったが、これから対峙するのは発展途上とは言え女性的な部分をいくつも持っている女子高生の身体なのだ。 伊織にすれば、会って間もない殺人鬼の男にそんな世話を焼かれるのだ。普通であれば羞恥を通り越して嫌悪に近いものを抱く範囲である。さらに世話を焼くのが着替えならばともかく排泄となれば、人識の感じる抵抗は過去最高潮のものとなった。 ――まったく、とんでもない荷物を残しやがって。 心中で毒づきながら、伊織と共に個室に入った。便器の蓋は既に開いている。伊織は便器を背にして立ち、続いて個室に入った人識を見下ろした。安ホテルだけあって、電灯は薄暗く個室も全体が薄暗く思えた。 「スカートまでは下ろさなくて良いですよ。下のスパッツとパンツを一緒に持って、一気に下ろして下さい」 あ、それともスカートも一緒に下ろしたいお年頃ですか? と軽口を続ける伊織を見て、よくもまあそんな余裕があるなと驚きながら、軽口を無視して人識はするりと伊織のスカートの中に手を忍ばせた。腰の辺りをなるべく伊織に触れないようにまさぐり、ゴムの部分を見つけて中に親指を捻じ込む。 少女の柔らかい肌に包まれた骨盤が指の背を擦る感触に顔をしかめながら、慎重に引き降ろす。一気に降ろそうとすると引っ掛かって上手くいかないので、さっさと終わらせたければゆっくりと確実にやることが大切なのだ。 膝下まで引き降ろすと、伊織は便器にそのまま座った。位置をずらそうと暫くは腰をもぞもぞと動かしていたが何かが気に入らないらしく、やがて人識に言った。 「あの、お尻の方でスカート巻き込んでいるので、引っ張り出してくれませんか?」 今更嫌がる素振りを見せたところで無駄なので、人識は素直に伊織の言う通りに背中側に手を伸ばして便器と身体の間に巻き込まれているスカートを順々に引っ張り出した。伊織は「ありがとうございます」と言う。 「俺、出てるから」 ここから先は用を足し終わるまで側にいるのが憚られるので、伊織が何か言う前に人識は個室の外に出て扉を閉めた。なるべく別のことを考えて、扉を閉めても尚漏れてくる音を意識しないようにする。 「人識くーん、終わりました」 すぐに伊織から声がかかって、人識は扉を開けた。伊織はやはりちょこんと便器に座ってこちらを見上げてきていた。使い物にならない両腕はぷらんぷらんと脇に下がり、相変わらず血を滲ませたままだ。 伊織は変わらない無邪気な笑顔で言った。 「じゃあ紙切って、拭いてください」 ……やはり、そこまで要求するか。 人識は心中に苦味が広がるのを感じ取りつつ少し多めに紙を切って畳み、スカートを見えない程度に遠慮がちに持ち上げた。足の間に紙を持った手を忍ばせて慎重に手を運ぶ。程なくして何かに当たり、軽く拭き取ろうとすると、 「人識くん。もう少し下ですよう」 真上から伊織がにっこりと笑ってきて、今更ながら人識は羞恥を覚えた。恥ずかしい筈の伊織が平然としていることがさらにそれを煽る。 言われた通りに下にゆっくりとずらす。紙を介して伝わる感触は出来る限り意識の外に追いやった。 「そこそこ。そこです」 言われた場所を機械的に数回撫でて拭き取り、そのまま紙を落として手を引っ込めた。脇のバーを押して水を流すと、伊織がゆるりと立ち上がる。スカートの裾がゆらりと揺れ動き、太腿を掠った。 人識は無言でまたスパッツと下着のゴムの部分を掴むと、今度は素早く引き上げた。伊織は身を捩じらせて人識の動きを手伝い、どうにかこうにかで履かせ終えて人識の短い受難は終わった。 水が安っぽい音を立てて流れる音を背後に聴きながら、伊織はトイレに入る前と全く変わらぬ笑顔で言った。 「人識くん、ありがとうございますー」 「いや、」 少し気まずくて、人識はわざと振り返らずに足早に個室を出る。伊織が全く何も気にしていない顔をしていることが俄かに信じ難く、だがここで羞恥に顔を染める伊織というのももっと想像できずに、とりあえずは別のことを考えるよう努力した。 ベッドのある部屋に戻り、今度こそ人識は眠りを求めてベッドに倒れこむ。布団をかぶるのさえしんどいと感じた。もう動く気になれそうにない。 トイレなどの世話は、連れて行くことが決定した時点で覚悟はしていたが、予想以上に疲労が積もる作業であった。伊織はどうなのだろうか。 「おやすみなさい、人識くん」 気にした途端に声が響いて、人識は少しびくりとする。壁のスイッチを頬か何かで押したのだろう。電気が消えて、伊織の声が闇に吸い込まれる。そのままごそごそとベッドの上で身じろぎしたり布団をかぶったりする音がして、すぐに寝息と軽いいびきが響いてきた。 何と呑気な奴だろう、と人識は嘆息する。家族を殺され、いきなり両手を失い、知らない男に連れられ、トイレの世話までされて、しかし我が家で寝ているような安眠っぷりだ。 ――でも、まあ、 人識は身体の痛む場所がベッドと擦れないように身じろぎしながら、目を閉じる。 ――こいつが相手だったから、まだトイレの世話もましなもんだったのかもな。 もし伊織がまともな神経の少女であれば、まずトイレの世話などさせず、結局自分でできなくてそれこそ伊織が指摘した通り漏らしたり汚したりしてしまったに違いない。そうすればきっともっと気まずくなっただろう。 それを考えると、伊織の図々しいとも言えるこの性格に助けられたようなところもある。 ――無桐伊織、か。 あんた、これからどんな零崎になるんだろうな。 口元に引き攣った笑みを浮かべ、人識は薄っすらと考えながら眠りに没する。 程なくして、部屋では二人分の寝息が交互に木霊していた。 |