遠い背中


コンクリートが砕ける音がして、地面から破片が飛び散る。咄嗟に顔を庇おうとした腕の隙間から見えたのは、薄っすら血の滲む包帯の腕。
「旦那! 右から左回りに真心ちゃんの背後へ!」
言われるままに走り出す。立ち昇る土煙のおかげでまともに前さえ見えない。しかし、ぼやけた視界の中でも、何もかもを染め上げそうな鋭い橙はしっかりと浮かび上がっている。これならば苦労はしない。
「私は真心ちゃんの注意を引いて押さえ込むから、その隙に催眠だけでも!」
飛んで来る指示を出す声は掠れていて、息も上がっている。早く彼女を休ませたい。また大きな傷を負ってしまったというのに、彼女は懸命に動く。狐面の男のために。
橙なる種の暴れ具合は、怪獣映画を見ているような気分にさえなる。外側から見ている分にはただの娯楽であるが、画面の内側の人々は大変なのだ。
怪獣のような唸りと轟音。天井の辺りから嫌な音がして、コンクリートの塊が目の前に落ちてきた。破片が飛び散って頬をかする。ぴっと皮膚の切れる音と、細く鋭い痛み。だが気にはしていられない。今、彼女が必死に押さえ込んでいるのだ。
時計を取り出して握り締めながら、煙を掻き分けて橙色に近づく。橙は彼女と取っ組み合うような形になっていた。身長にこれほどの差があるというのに、力の強さでは橙の方が勝っている。
「真心!」
大声を出すのは得意ではないが、腹の力を込めて、精一杯の叫びをぶつける。すると、取っ組み合ったままの橙の顔がぐるんと振り向いた。
何も映さず何も反射しない大きな瞳が、こちらを真っ直ぐ見据える。隈は以前よりも激しく色濃く縁取り、とても恐ろしい顔である筈なのに、橙はいつもこのようなとき無表情なのだ。いっそ激しい怒りの表情を浮かべてくれれば良い。憎しみをこちらにぶつけてくれれば良い。なのに、いつだって暴れ出す真心は表情をどこかに落としていく。
前の衝撃にやられて、またコンクリートがけたたましく落ちてきた。その爆風に煽られて、しめ縄のような橙の三つ編みが横殴りに襲ってくる。髪の毛如きにやられるなど馬鹿らしいが、真心の髪となると話は別である。視界が一瞬にして橙に染まり、思わず怯んだ。
倒れこみそうになったそのとき、血が滴り落ちる包帯の両腕が大きく伸びてきて、三つ編みを押さえつける。ひびの入ったレンズの奥から、強い光を持つ双眸がこちらをしっかりと捉え、血の滲む唇が裂けそうな声で叫ぶ。
「旦那ぁ! 今のうちにっ、早くっ!」
握り締めていた時計を真心の鼻先に突き出す。息をゆっくりと吸い込ませて自身を落ち着かせながら、幾度も掛けてきた術を念入りに沁み込ませる。途中で真心が暴れようとするのを、彼女は必死に押さえつける。暴れられたら、折角かけた術は無効になってしまう。
やがて、真心の抵抗は唐突に止み、空気の抜けた風船のようにすうっと倒れこんで、包帯の腕の中に納まった。真心の矮躯は、辺りをコンクリートの塊で一杯にしてしまったことなど嘘と思えるほどに小さく、細くしなやかな腕の中で崩れるように抱かれている。
がくり、と抱き留める彼女の膝が折れた。そのまま地面に座り込んで大きな溜息をつく。首が地面に向けて垂れ、もう一度大きく息を吐いた。今回最も大変な役回りを果たしたのは、彼女である。生傷で身体はぼろぼろだろうし、疲労も最高潮の筈だ。
何と言って労おうか。ご苦労様。いや、それは他人事のような響きがする。よくやった。それは上司の言う言葉じゃないか。ありがとう。あまり相応しい場面とも思えない。
迷っているうちに、彼女の方から声がかかった。
「……時刻の旦那、」
声からも窺える疲労の濃さに、心臓が疼く。彼女にこんなことを強いているのは誰か。橙なる種か。いや違う。あいつだ。あの、夏の幻のような狐面の男。
「私は少し疲れたから、狐さんと頼知くんには旦那が連絡してくれないか。私は、もう暫くここで休むさね」
「……ああ、分かった」
答えてから、しまったと思う。結局こんな淡白な態度しか取れないのか。自分がやるせなくなる。彼女のことが大事で堪らないのに、彼女を目の前にして自分は何も出来なくなる。
「ゆっくり、休め」
何とか言葉を搾り出し、足早にそこから立ち去る。早く絵本園樹を連れて来て、奇野頼知に真心の発見と確保を連絡して、そしてそれを狐面の男に報告しなければ。戦闘の場面において全く役に立たないのなら、せめてこのようなところで役立ちたい。
靴裏にコンクリートの破片を踏みしめながら、時宮時刻は先ほど頬に負った傷を指で辿る。温い血とぴりっと走る痛みに、顔をしかめる。



「旦那、三日ぶり」
無意識に待ち焦がれていた声に呼びとめられ、時刻は廊下の端で振り返った。
久しぶりに目にした右下るれろは、以前よりもまた素肌の部分が少なくなっていた。包帯だけではとうとう済まなくなって、脇腹にコルセットを嵌めている。足を骨折したのか、松葉杖も突いている。
真心が暴れるたびに、包帯の増えていく彼女を見て、時刻は居た堪れない気分になる。痛ましい姿に、自然と言葉が口から零れ出る。
「大丈夫なのか、怪我。まだ動かない方が、」
「これはドクターが大袈裟なだけさね。すぐに直るさ」
そう言って、るれろはコルセットを顎でしゃくり、顔を上げた。その顔を見て、時刻は息を呑む。眼鏡は新しく作り直したのかひび一つ入っていなかったが、その代わり片目は黒い眼帯で覆われていたのだ。
「その目、」
思わず口をついて出てしまう。あのときは気付かなかったが、まさか目まで傷を負っていたのか。片目と両目では見え方が大きく変わる。さらに松葉杖まで突いている。これでは、歩くたびに転んでしまうではないか。
「大丈夫。じきに直る、直る」
軽い調子で彼女は言い、松葉杖を突きなおして廊下に背を預けた。そして、大怪我など微塵も気にしていない様子で、時刻に聞いた。
「真心ちゃん、どうしている」
やっぱり、聞いてくるのは真心のことだ。それ以外の会話などする必要もないのだから当たり前だが、時刻は胸のどこかでもやもやとしたものが湧き上がるのを感じた。
「あれ以来、動きという動きも見せない。飯の量も減っている」
笑みを浮かべるのは苦手だが、彼女を安心させたい一心で、必死に口角を吊り上げる。
「まあ、今は安泰だ。心配ない」
出来る限りの笑みでるれろを見遣れば、彼女は何かを見つけたように見出したようにじっとこちらを見つめてきていた。心臓がどくんと一度うねる。
唐突に、るれろは口元に手をやった。ふふ、ふふふ、と堪えるような小さな笑いが漏れ、やがて広がっていき、最終的には肩を揺らして笑い出した。
突然の笑いの発作に、時刻は唖然とする。こんな風に笑う彼女は初めて見る。自分の何かが面白かったのか。それとも全く別の事柄なのか。
笑いの中で途切れ途切れに、るれろが言葉を紡ぎだした。
「あはは……! 旦那、可笑しい……! 変な顔して……!」
変な顔? 自分は彼女の笑いのつぼを押すような何か不思議な顔をしたのだろうか。
笑いを収めながら、るれろはにやにやと口元を緩めて言う。
「旦那、あまり笑ったことないね? 笑っているつもりだろうけど、その笑顔、凄く怖いさね。ふふふっ」
最後には堪えきれない笑いが口の端から洩れ、るれろはまた笑い出す。その様子は、それはそれで見ていて飽きないものはあったが、時刻は思わず憮然としてしまった。
「そんなに面白いのか」
「面白いさね、凄く、ふふっ……あ、」
一頻り笑ったるれろが、ふと、時刻の顔に手を伸ばしてきた。指先にもガーゼや包帯がぐるぐる巻かれているのがよく見える。腕と共にるれろ自身も近づいてくる。驚いて思わず時刻は身を引く。心臓の鼓動が早くなっていくのを止められない。今度は何だと言うのだ。
「その傷……まだ新しいね。この前のかい?」
包帯に包まれた指先が、直に時刻の頬の傷に触れた。整った目鼻立ちがますます近づいてくる。少し及び腰になりつつも、時刻は平常心を装って答える。
「ああ、そうだ。もう痛まないが」
途端に、間近に迫ったるれろの細い眉尻が下がる。悲しそうな表情に、また心臓が跳ねた。今日だけでどれだけ寿命が減ったか。
るれろは、少しだけ声を沈ませて言う。
「旦那に怪我させちまったね……ごめんよ」
な。
何を言っているのだろう。彼女は。
取り繕う暇もなく動揺してしまった。そんな時刻に構わず、るれろは続ける。
「旦那や頼知くんになるべく怪我がないように押さえ込むのが私なのに、結局旦那も怪我させて……すまないね」
「な、それは、でも、」
彼女が悪いわけがない。あの場にいれば怪我はしてしまうものだし、真心を抑える役割を果たすからには、これほどの怪我は覚悟していなければならない。当然だというのに。
「旦那、じゃあまた」
触れられていた指が、頬から離れる。薄っすらと残る彼女の包帯越しの体温が、酷く名残惜しく感じられる。
松葉杖を器用に使いこなしながら去っていく背中に、時刻は堪らず声をかける。
「あなたの方が……ずっと多くの傷を負っているのに、そんなことを」
包帯の白が滲む頭が、ゆるりと振り返った。口元の微笑みは、時刻には一生真似できそうにないほど穏やかで美しく、本当に幸せを感じていると思わせられる笑みであった。

「狐さんのためだもの。これくらい、苦でもないさね」

笑み同様、その声は満足と幸福にあまりにも満ちていて、時刻は返す言葉を失くす。まさか、ここでその名前が出てくるとは。あの幸せそうな顔。満ち足りた光を帯びる瞳。彼女の幸せを願ってやまない筈なのに、酷く悲しい気持ちが胸に寄せては返すを繰り返す。
コルセットや包帯で包まれている見慣れた背中は、呆然と立ち尽くす間に消えてしまった。
三日前よりも、あの背中は遠い。






前サイト5555のキリリクでした。麦様より、時宮時刻×右下るれろで。
原作全然読み返してないので色々とズレがあると思われますがご容赦ください。
切ない……切ないって難しいよ。そして非戦というリクだったのに頼知くん出てないよー(汗
いやあ、二時創作って大変っすね!(誤魔化した

07/08/10