零崎人識の受難2 「おはようございます人識くん。今朝の目覚めはいかがですか人識くん。このベッドはやはり安物みたいですね凄く寝心地悪いです人識くん。おかげで伊織ちゃん全然よく眠れませんでした人識くん」 名前を連呼するな、と叫びたいが、不思議とこの少女相手には調子が狂って上手く言葉が出てこない。零崎人識は寝起きでさえ赤いニット帽を脱ぐことのない少女をベッドの上から眺める。乱れた髪の毛はおかしな具合に宙に浮き、少し着崩れた服の裾からは相変わらず痛々しい傷口を覆う包帯が覗いていた。 「ねえ、それで眠れなかった可哀そうなわたしは、寝ながらずぅーっと考えてたんですよう」 口元に微笑を浮かべながら、無桐伊織は布団から這い出てきた。にじり寄るような、獲物を視線で嬲る獣の如く粘着質な気配が漂う。 嫌な予感がした。デジャビュという言葉がしっくり来るこの感覚に、人識はまだあちこち痛む身体をぶるりと震わせる。 「わたしも人識くんも、シャワーも浴びずにいて、もうどれくらい経つのかなあ……って」 にっこり、という笑顔が伊織はとてもよく似合う。 第三者として見る分には可愛らしい女子高生になるのだが、しかし第二者の立場に立ったその時、地獄は訪れる。 「そ、そうだな」 答える自分の声が固まっているのがよく分かって、こんな少女相手に自分は何を怖がっているのかと思う。だがしかし、腐っても若くてもなりたてでもそこは零崎。気迫だけは充分なのだ。 地獄の名を受け継いだ凶器を枕元に放置したままちらつかせ、伊織は言う。 「ねえ、人識くん……一緒にシャワー、浴びません?」 わたしはいい加減汗をかきました、もう限界です、女子高生が汗臭いなんて言語道断ですよ分かってますか? と、矢継ぎ早に言葉を浴びせられ、人識は無我夢中で承諾の返事をしながら、厄介ごとに巻き込まれたことをひしひしと自覚し直した。 シャワールームは狭かった。とても二人で浴びられるものではない。元々一人用に作られているようだし、第一人識はシャワーを浴びる気は一つもなかった。数日間シャワーを浴びずにいることに抵抗はなかったし、二人で浴びるなどという拷問に近いことは避けたい。さすがに浮浪者と間違えられる程に日を空けることはないものの、家出少年たる人識はその程度は我慢できるのだ。 「うなー、もう身体中が汗臭いです!」 手首のない腕で身体を抱き締めながら、伊織が唸る。ああそう、と適当に受け流しながら、人識は靴下を脱いだ。入る気はないものの、シャワーを浴びさせるにはある程度こちらも踏み込まなければならない。本当に世話の焼ける小娘である。 帽子に手をかけると、自分と伊織の身長差を嫌でも思い知らされて少々不快になった。しかもそれを伊織に気付かれてくすくす笑われながら身を屈められたものだから、ますます不機嫌は態度に表れた。 「身長のこと口にしたら殺すっつったよな」 低い声で脅すと、 「え? 傷口広げるって言ってましたよ?」 別の問題で返された。 帽子を脱がせると、ぺたりと張り付いた髪の毛が露わになった。年がら年中ニット帽をかぶり続けるというのも相当な根性だと思う。 それから上着を脱がせにかかる。伊織のために自分が貸した赤いパーカーは、彼女自身の血で所々黒っぽく変色していたため、赤地ではあるものの非情に目立っていた。 裾を持ち上げると、伊織は両手を上げて待っていた。 「……何の真似?」 聞かずとも答えは分かっているが。 伊織は何の照れもなく、間延びした声で言った。 「ばんざーい」 「……」 いい加減馬鹿馬鹿しくなってぐいぐいと引っ張って一気に脱がせれば、これまたところどころが血に染まった下着が出てきた。確か一度コンビニで下着だけは買い換えて尚且つ着せてやったから、この血は新たに手首から出血したものが滲んだのだろう。 シャツを脱がせ、背後に回ってブラのホックを手早く外す。なるべく伊織を見ないように注意して剥ぎ取った下着類を、置いてあった籠に放り込んだ。 そこまできて溜息をつく。それを聞きとがめた伊織が、くすくす笑いながら見当違いなことを言う。 「お坊ちゃん、女の子の裸見るのは初めてですか? 恥ずかしい?」 「俺は十九であんたより年上だっつの、お坊ちゃんとか次呼んだら後ろから刺すぞ」 何でこの女子高生はこの手のネタを平気で口走ることができるのだろう。最近の女子高生というのはこんなものなのだろうか。 「人識くん、もうナイフ持ってないじゃないですか」 当然の突っ込みを入れられて、人識は答えずに伊織の頭からバスタオルを吹っかけた。 「うわっ何するんですかっ」 「俺は見たくないし、伊織ちゃんだって見られたくないだろ」 バスタオルを上手い具合に胸の上辺りで巻いて、人識は伊織の脇にしゃがみ込む。目のやり場に困るというのが本音である。恐らくこの少女、今更自分にどこを見られたところで動揺などしないだろうが、人識としては見ないで済むものは出来る限り見ないでおきたかった。 人識が少女の裸体に対してここまで乾き切っているのも、偏に傍若無人な秘蔵っ子のおかげかもしれない。あの少年のような少女ときたら、寝るときには着ていたものを全て脱ぎ去り、あまつさえ人識がかぶっていた布団に潜り込んできたときさえあった。もっと悪いことに、匂宮出夢という少女は自分の裸体を隠そうという精神の代わりに人識が嫌がることなら何でもやろうという心意気を持っており、結果としては見せ付けてくるのだった。 ――あいつに比べたら、これくらいマシだ。 ハイソックスに手をかけると、意味を察した伊織が片足を持ち上げる。 途端にバランスを取れずにふらふらと揺れ始めたので、人識は一気に脱がせようとしたがなかなか上手くいかず、逆に引っ張られた伊織が勢いよく倒れこんできた。 「うなああぁぁぁぁ」 伊織の口から、本人は大真面目のふざけた悲鳴が上がる。 咄嗟に抱きとめようとした手はしかし間に合わず、真っ直ぐ倒れこんできた伊織の胸元が人識の頭にぶつかり、足はもみくちゃになって人識の腹にぶつかる。そのまま尻餅を突きそうになるのを何とか踏ん張って耐え、人識は倒れこみながらぐらぐらと崩れる伊織の身体をどうにかこうにか抱きとめようと踏ん張った。 わざとではないかというほど前後に大きく揺れた後、不完全な抱っこのような形で何とか伊織は落ち着いた。一方人識は眼前に迫るバスタオル一枚を隔てた胸の感触に辟易としており、また腹に受けた衝撃も大きく、結果として口を利けない状態である。 「……っ」 「ふう、危なかった! ごめんなさいね人識くん」 衝撃でずり落ちるバスタオルを引き上げようともせずに伊織が人識からよいしょよいしょと離れる。間一髪、見えそうなところで人識は我に返ってバスタオルを慌てて引き上げ、丁寧に巻き直した。 ぺたんと座って人識がきちんとタオルを整えるのを見ながら、伊織は言う。 「そんなに見たくないんですか、人識くん? 女の子の身体とか興味ないんですか? ……はっ、もしかして、人識くんって実はホモ――」 「BLから思考を外せっ!」 思わず殴りたい衝動を必死に堪えて、人識は少し乱暴に伊織のハイソックスを引っ張った。座った状態ならばバランスを崩すこともない。あっという間にハイソックスを二本脱がせて籠に入れ、伊織を立たせる。 タオルの裾から両手を入れて、スカートのホックを外す。その下のジッパーを引き降ろしてスカートを足元まで落とすと、裸足になった伊織はそこから足を抜いた。見慣れたスカートもやはりところどころに血の跡がついていて、とても尋常なものには見えなかった。 スパッツと下着は一緒に引き降ろす。要領を得ているのか、伊織はそれぞれから順々に足を引っこ抜き、残っている体温を感じないように努めながら人識はやはり籠の中にそれを放り込む。 シャワールームの戸を開いて、伊織を中に入れた。腕まくりをして続き、戸を開けたままシャワーの首を掴む。洗面所が濡れるが、二人で入るほど余裕はない。 「伊織ちゃんは身体中洗いたいです!」 ぐるんと振り返った伊織が主張し、 「却下だ。俺はそこまでしたくない。流すだけでいいだろ」 人識が冷徹に返した。 「じゃあじゃあ、石鹸で身体全体を擦るだけでいいですから!」 「……」 「うなー、じゃあ石鹸水で流す……のはやっぱ嫌だなあ」 「……」 「もー、ムッツリくんですね人識くんは!」 「……は?」 「触らせればいいんでしょう? どこですか触りたいのは!」 「何を勘違いしてるんだよあんたは!」 思わず突っ込みを入れる。伊織の目は言葉とは裏腹に爛々と輝き、口元も笑いを堪えるように震えていた。程度は軽いものの、伊織も結局出夢と変わらない。 癪に障って、人識は低く言う。 「……髪と背中」 「え?」 「髪と背中で、妥協だ。髪はシャンプーで洗ってやるし、背中は石鹸でちゃんと流してやるから、他は勘弁してくれ」 本当は髪だけ洗ってやるつもりだったが、きっとここで背中までをも断ったら翌日にまた求めるだろう。何度もこのような思いをするのは御免被りたく、また、だからと言って伊織の要求通りに身体中を洗ってやるのはもっと勘弁してほしいところだったので、髪と背中というのは即ち最大限の妥協点である。 幸い、伊織はにこりと笑って頷いた。 「はい、じゃあよろしくお願いします」 シャワールームに一つ転がるようにあった椅子に伊織を座らせ、包帯が巻きっぱなしの腕をなるべく濡れない位置に突き出させる。止血も済んで破傷風などの症状が見られないとは言え、傷口が痛まないわけがない。水は痛いだろうし、万が一傷口から菌が入ったら問題である。義手を用意するまでは注意しなければならなかった。 シャワーを下の方で自分の手に向かって小さく出して、温度を確認する。冷たかった水温はすぐに熱いお湯に変わり、人識は最大限伊織の腕に水がかからないよう注意しながら背中から巻いていたバスタオルごとシャワーの水を流し始めた。肩口から慎重に前方にも湯を行き渡らせ、頃合を見計らって背中に戻すと、シャワーを持っていない方の手で伊織の顎のラインに手を当てて上向かせた。 「うな、」 「水かかるかもしんないから、目、閉じてろよ」 上から見下ろす視線ときょとんと見上げる視線が合う。伊織は素直に目を閉じる。 少し汗ばんでいた額にかかる前髪を全て後ろに持って来させた。そのまま前頭部を倒すように押すと、伊織は思い切り顎を仰け反らせた。おかげで流しやすくなる。伊織の閉じられた瞳に、シャワーから跳ねた小さな水滴が乗った。 シャワーの勢いを弱めて髪の毛を丁寧に流す。ごく普通の少女の茶色い髪は特別にさらさらしているわけでもなく艶めいていることもなかったが、水を介して手に通すと案外心地良く、人識は弄ぶように何度かシャワーを通した。 全体が充分に湿ったので一旦シャワーを切って、シャワールームに備えてある安物のリンスインシャンプーを手に取る。どれほど出せば良いのか分からなかったが、とりあえず数滴ぼたぼたと手に落として軽く泡立たせ、仰け反ったままの頭に手を入れてがしがしと擦った。髪が長かった頃の人識よりも随分と短いので、そう苦労することなく泡は全体にかかった。 「ふうん、あー、うふふふ、」 目を閉じたまま、伊織は空気が抜けた浮き輪のような緩い声を漏らした。逆さまに覗きこむと、口元までもがだらしなく緩んでいる。 「何だよ、気色悪い」 思った通りのことを口にする。普段からへらへらしているので今更でもあるのだが、何の前触れもなく声を漏らす様は素直に気色悪い。 「可憐な女の子に向かって何ですか、それ」 先ほどと同様の締まりのない声で突っ込んでから、伊織は少し身じろぎする。 「人に頭洗ってもらうのって、すっごく気持ちいいですねえ」 人識くんって、手はおっきいんですね、と呟くように言う。本当に気持ち良さそうな顔をしているものだから、人識は暫くその顔を眺めてぼうっと手を動かしていたが、時間差で伊織の言葉の意味を汲み取り、髪の毛と泡に突っ込んでいる手で直接頭皮を圧迫した。 「身長のことは言うなっつっただろ。傷口に水ぶっかけんぞ」 「いたた、人識くん、水ではなくお湯です」 「要点そこじゃねえ!」 いい加減突っ込みを疲れてきた。人識は髪の毛から手を引っこ抜き、シャワーの首を再度掴んで少し強めに出しながら泡だらけの頭にざぶざぶとかけた。泡はみるみるうちに流れて排水溝に消えてゆく。しっとりと濡れて色を変えている髪の毛を梳くように流しながら、人識は石鹸の場所を確認した。 シャンプーの感触が消えたと判断した頃合で、人識はシャワーを背中にかけた。それに合わせて伊織は仰け反らせていた頭を戻した。バスタオルを背中の部分だけ外すと、滑らかな白い肌に浮かぶいくつかの擦過傷や打ち身の名残が目に入る。あの夜伊織が負った傷は、両手首のものだけではない。 シャワーを止めて石鹸と備え付けのタオルを手に取る。華奢な肩甲骨の上で水滴が震えていた。泡立てる前に髪の毛を顔の横から前方へ全て落とすと、背中と同じく白いうなじが現れた。 首のこりこりとした骨から背骨にかけてのラインはなだらかで、幾ら匂宮出夢で慣れていたとは言え、人識は思わず目を逸らしてしまった。匂宮出夢の裸の背中など腐る程見てきたが、あの背中と今目の前に鎮座する背中は明らかに違うものなのだ。 出夢の背中からは漂うことのなかった少女らしい香りが、人識の鼻腔をくすぐる。あの背中からはどこか血生臭い匂いがしたが、伊織の痩せているのに丸みを帯びた背中からは血生臭さと共に少女と感じさせる匂いもする。 ――つい最近まで、この少女は殺人鬼やこの世界とは無縁の女子高生だった。 当たり前のことを今更意識させられる。 人識は気を紛らわすように石鹸を勢いよく泡立ててバスタオルに擦りつけ、程よく泡立ったバスタオルを目の前の背中に押し付けて擦る。 「人識くんもっと下! 下の方痒い!」 早速伊織が注文をつけてきた。人識は黙って従い、泡立たせ続ける。沁みるだろうという優しさをもって傷口を避けるように擦っていると、 「そこ、傷とかもう気にしないで全部擦っちゃって下さいっ!」 風呂場に響く声で伊織が叫んだ。 「まだ新しい傷だから沁みるぞ?」 「いいんです!」 伊織はきんきんと高い声で騒ぐ。出夢も饒舌であったが、こんな風に声は高くなかった。少女の声のかしましさを初めて知る。 「伊織ちゃん、痒くて痒くて痒くて痒くて痒くて痒くて痒くて痒くて、本当はすっごくすっごく痒くて、だから昨晩は眠れなかったんです!」 「分かったから、黙れっ!」 伊織の声にかぶせるように、人識は怒鳴った。怒鳴りながら、ここが安ホテルであることを今更思い出した。自分達の声はどれだけ響いているのだろうか。もう近所迷惑など気にしない。 早く終われ。拷問よ終われ。人識は切に願いながら、伊織の背中を擦り続けた。 「ふー、気持ち良いですねお風呂上りは!」 心なしかてかてかと輝いているように見える伊織に対し、 「そうかい、俺は疲れたけどな」 げっそりとやつれる人識がいた。 どうにかこうにか背中を流し、身体を拭いてやり、服を着せ、たった今やっと終わったのだ。手洗いのときにも疲れたが、これはこれでまた別の疲れ方である。早く義手を手に入れなければと思う。そうでないと、とてもじゃないが精神がもたない。 「それでは人識くん。全身マッサージをお願いします」 背後の伊織が言った。人識は振り返る。 「は?」 「伊織ちゃんてば、手首なくして凄く辛くて、身体中凝っているんです。それなのにこんな安ホテルで硬いベッドだし、すんごーく疲れてるんです。女子高生って、デリケートなんですよ?」 伊織がぺたぺた、と歩んで、ベッドにごろりとうつ伏せに寝転がった。そのまま顔をひょいと上げてにっこりと笑う。 「さあ、人識くん、お願いします」 悪魔の微笑みというものはこの世に存在するものだ、と人識はつくづく思った。 今暫く逃れられそうにない。兄貴はとんでもないものを残していった。真剣に恨もうと思う。そうだ。双識の見繕った零崎なのだ、この少女は。 人識は大人しく諦めて、伊織の寝転ぶベッドに乗り、言われるままにマッサージを始めた。 零崎人識の受難はまだまだ終わりそうにない。 |