魔が差す


古い畳みの穏やかな匂いを鼻腔の奥で飲み込み、糸色交は瞼を薄っすらと開いた。寝起きのためか視界はぼやけ、着物の袖から力なく仰向いて畳みに転がる自分の手首の白さが目をついた。短い指と青い血管がぴくりと動く。まるで死人の手、と思う。
「交くん、起きた?」
真後ろから見知った声を掛けられて、寝転んだまま交は目線を後ろへ持っていく。大分覚醒してきたというのに、未だに視界は水で滲ませたように濁っていた。声を上げる間もなく黒く長い髪が降りてきて、交の頬を掠った。押入れの匂いとそれとは別の甘い匂いを漂わせた布団は、交の背中に擦り寄っていた。
「霧……お姉ちゃん、」
「交くん、気分はどう?」
布団と前髪の間から、引きこもり少女、霧は問う。髪の黒と地肌の白により唇の赤さが一層際立って、交はぞくりと背筋を揺らした。まだ首が据わらないような気がするが、とりあえず肘を突いて身を起こし、畳みに袴を擦らせながらさり気なく距離を取った。
「霧お姉ちゃん……ずっとここにいたの?」
寝顔を見られ続けていたとしたならば、それは恥ずかしいことである。今更ながら唇を引き締めて涎の有無を確かめ、乱れた髪の毛を手櫛で押さえつける。霧の表情を読み取ろうと目を凝らすのに、どうにも見えない。薄暗いからだろうか。
「わたしはずっとここにいるよ?」
当たり前のように霧がか細い声で答えて、頭を軽く振った。長く細い髪の毛が揺れて顔の両脇に下がり、霧の顔が露わになった。あっと交は思わず声を上げる。霧の宇宙のように黒く丸い瞳の上に、見覚えのある眼鏡の縁が鋭利で柔らかい線を描いていたのだ。
形の良い鼻の上の眼鏡をちょこんと人差し指で上げながら、霧は交の方へと屈んできた。この少女は人との距離を取りたがる癖に、時折思いがけない近さまで迫ってくる。普段拒否の強い傾向があるだけに、許容を意味するに違いないその近さを交は拒むことができない。
「霧お姉ちゃん、近い……」
「交くん、今、目、見えてる?」
霧の声は薄暗い部屋でよく聴こえた。背後の窓からは夕暮れの朱が入り、畳みの上を四角く舐めている。そう言えば気温が下がって腕が肌寒い気がする。
「見える、けど、」
霧の吐息が交の前髪を揺らした。布団の中から、病的な白さを保つ手首が出てきた。先ほどの畳みに転がる死体のような自分の手首に重なり、交は瞬間的にその繋がりを覚えたことに後悔した。霧は名前のように実体なく思えることがしばしばあるが、その筈はない。霧は紛れもなく生きている一人である。
「よく見える? 歪んだりしないの?」
この少女に実体の感触が消えるとき――それは、死のみ。
だが、死んだら霧散するわけではない。ただ、もう動かない白骨の硬さを秘めた生々しい柔さが、死体として残るだけだ。
霧の手首が空中を泳ぐように揺れて、交の首に絡まった。絞められるのかと思って思わず首を竦めるが、首を通して伝わるのは死体の冷たさが絞め付けてくる息苦しさではなく、脈を柔らかく押すのみの指の人並みの体温であった。
交は得体の知れない息苦しさを感じた。力を入れて絞められたように、気管が縮まる。裏返るのを必死に抑えながら、交は霧の問いに答えた。
「よくは見えないよ、だから、」
眼鏡返して、と言おうとしたそのとき、霧の顔が一気に迫ってきて、赤い唇に言葉を呑まれてしまった。咄嗟に離れようともがき、目前で眼鏡を通してこちらを見つめてくる小さく黒い宇宙色の瞳に動きを止めた。霧は気まずくなるほどにはっきりと目を開き、睫毛の数が分かりそうな距離で交を見つめ続けた。唇を通して伝わる甘い匂いと濡れた熱に交は硬直した。目を閉じることなどできそうにもなかった。
「ぷう、」
唇が離れ、顔も離れる。問答の押し付け合いのような口付けは、一方的に始まって抵抗もできないうちに終わってしまっていた。
「よく見えないんだよね、交くん」
首筋から白蛇のような手首がするすると引き、布団の中に引っ込んだ。幾分か乱れた髪が霧の顔にかかり、静謐で幼い顔立ちを彩る。
「……う、うん。見えないけど、」
今の口付けにはどのような意味が含まれているのだろうか。問い質そうと口を開くと、また霧の顔が唐突に迫ってきた。同じように唇を奪われるのではないかと口を噤んで顔を仰け反らせると、霧はただ顔を近づけながら囁いた。
「わたしもね、交くんの眼鏡をかけると全然見えない。伊達じゃなかったんだね」
霧は笑っていた。何かの意志を訴えるように大きく瞳を開きながら、口元が笑んでいる。
「わたしも、交くんも、何も見えない。だから、何が起こったのか分からない」
霧が俯くと、からんと音を立てて眼鏡が落ちた。顔の大きさや耳の位置が合わないらしいその眼鏡を、霧は軽く引っ掛けていただけのようである。交は反射でそれを拾い上げて、元の位置に掛けた。回復した視力は、薄暗さの中に浮かぶ幽霊のような笑みを捉える。
「わたしも、交くんも、何が起こったのか知らない。この部屋には私達以外誰もいない。誰も知らない出来事は、なくなる」
白い歯がちらりと見えた。乳歯のように小さく規則正しい円やかな歯。
「だから、さっきのことは、なくなるの」
世界を閉ざすように、霧は前髪を元に戻した。布団を引き寄せて頭までかぶり、部屋の隅まで這って移動する。そして、当然のようにそこに蹲りながら、いつものように動かなくなった。生存を示すのは、呼吸に合わせて幽かに上下する布団の表面だけである。
交はそっと指で唇に触れる。なくなるの、と囁く霧の声が脳裏を木霊し、それと同時に唇の表面で疼いていた霧の軌跡がみるみるうちに薄れていく心地がした。
よく見えなかった。顔が近いだけで唇をつけられていたわけではないかもしれない。じゃあ唇に当たっていたのは何なのか。霧の頬か髪か顎か、布団の裾かもしれない。或いはあれ程の近さに怖気づいた自分の作り出した、寝起きの幻の感覚か。
よく見えなかったのだ。あの黒くて小さい宇宙以外は。
もしかしたら、先ほど起床したと思ったのは間違いで、今さっき目が覚めたのかもしれない。夢だった。霧はずっと部屋の隅にいて、自分は眼鏡を掛けたまま午睡にかまけていたのだろう。夢だったのだ。
窓から外を見る。日が落ちた直後で、まだ僅かに赤さが残っている。優しく温い明るさだ。もうすぐ暗くなり、電気を点けなければならない。だが、今しばらくはこの自然の灯りだけで充分だろう。

人は、その時刻を、逢魔が時と呼ぶ。







さよなら絶望先生の霧×交です。絶望先生は一期アニメではそれ程ハマらなかったのに、二期アニメでどっぷりでした。
この二人って、日がな一日当直室で過ごしているわけですよね。これは絶対何かありますよね(それは勘違い
霧ちゃんは凄くえろいと思います。交くんは別に霧ちゃんのこと変なお姉ちゃんとしか思ってないと思います。
08/02/27