不純動機交遊 からん、とドアの開く音がしたので、反射でいらっしゃい、と答える。答えてから今日は予約の客がいないことに思い当たり、はてさてどのような急患なのだろうか、ドアからゆったりと入ってくるからには自分の足で歩ける程度にはましなのだろう、などと考えながら糸色命は待合室を窺う。 「失礼、します」 穏やかで凛とした少女の声ががらんとした待合室に木霊する。ガラスの扉にもたれかかるようにして気だるげに立っているのは、記憶の隅に引っ掛かるセーラー服である。黒髪を左右でおさげに結い、半袖から覗く細い腕やら短いスカートから除く太腿やら、身体中どこもかしこも包帯をまとっている。逆光でよく見えない顔の中で、口元が薄く笑んだ気がした。 「……ええと、望の生徒さん、ですか?」 診察室から埃臭い待合室に足を踏み入れる。昼間で電気を落としているせいか、薄暗さが病院特有の不気味さをさらに助長する。 少女の首がかくん、と人形のように傾いだ。頷いた、らしい。そのまま少女は怪しい足取りで命の方に歩み寄りながら静かな口調で言う。 「連絡もなくて、すみません。ちょっと怪我をしてしまったもので」 近づくにつれて、顔がよく見えるようになってきた。端整で大人びた顔立ちと、それを彩る眼帯や包帯の白。額から滑り落ちる一筋の黒髪は、不思議な妖艶さを醸していた。少女は確かに学生の身分で間違いない筈だが、その制服の下から漂うのは普通の女子高生とは一線を引いた大人の危うさである。 「今から、駄目ですか?」 声の質からして、子供のものではない。命はそう思う。 「駄目ということはありませんが、」 一体どこを怪我したと言うのか。怪我だらけで、何を診れば良いのか見当もつかない。何よりも先ず保険証を出して貰わねばならない。 「じゃあ、お願いします」 少女は手元の鞄から、予め用意していたように素早く保険証を取り出した。命の目の前まで近づいてきて、包帯に負けないくらい白い指で軽く挟んだ保険証を命に差し出す。 嗅ぎ慣れない消毒液の匂いが鼻先を掠める。 「小節あびる、です」 少女は、薄い笑みと共に名乗った。 「どこを怪我したのですか」 薄暗い真昼の診察室に二人きり。看護婦など雇っていないから、そのような状況など今まで幾度とあったわけだが、どこか危険な匂いのするあびると共にいるのは自然と緊張してきた。何より望の生徒である。下手なことは起こしたくない。医者としてどうかとも思うが、兎に角さっさと終わらせてさっさと帰らせようさえ思う。 「下腹部を、咬まれまして」 向き合ったあびるは、無表情である。 「何に?」 あびるは、目を閉じてふるりと一度首を横に振った。頬に睫毛の影が掛かり、おさげが肩の上で緩慢に揺れる。 「お話しても、きっと分かりません。普通の動物です」 話しても分からない時点で普通の動物ではない。 「……消毒はしましたか」 「ええ、きちんと」 腕や足を咬まれる患者というのは聞くが、下腹部など果たして咬まれるような部位なのだろうか。望の生徒であるからには不可解な特徴を持っているのだろうが、それにしても目の前の少女は相変わらず身を強張らせずにはいられない空気を放っていた。 命が何かを言う前に、あびるがゆっくりと上のセーラー襟を脱いだ。子供のように脱ぎ捨てるでもなく、機械的に脱ぐでもなく、ゆっくりと計算し尽くされた動きで、あびるはどうにも扇情的な脱ぎ方をする。 頭を俯けて服から抜き、肩を窄めながら両手を順々に引き抜き、丁寧に服を折り畳む。憂いを帯びているように思える俯いた顔に映る影は動きに合わせて緩慢にうねり、薄暗さに包まれた肌と包帯の白さが背景と溶け合う。おさげの先が浮き上がった鎖骨にかかり、黒と白のはっきりとした境界に、命は思わず目を逸らす。 「ここ、です」 脇に服を置いたあびるが、下腹部の一部を指差した。下着と包帯に巻かれた胸元を見ないようにして、命はあびるが指した細い胴回りの一部を見る。 肋骨ははっきりと数えられるほど浮き上がり、それでいて腹はごつごつするでもなく、臍の方まで滑らかに続いている。丁度盲腸の上辺り、あびるの細い指が指したところには、ガーゼが当てられて丁寧にテーピングしてあった。なるほど、確かに下腹部である。咬まれたという表現から犬や猫のようなものを想像していたが、ガーゼは予想よりも大分小さく、どうやら小動物程度のものらしい。 「……すみません、ガーゼ、取りますね」 命は言って、腕の震えを悟られないように抑えながら、そっとテープの端を剥がしにかかった。あびるの顔は見ない。見てしまったら、落ち着けない。 「っふ、」 あびるが幽かに吐息を漏らした。命は自分の髪がぞわりと揺れるのを感じる。耳の上で吐息と共に発される声は学生如きが出せるようなものではなく、テープを剥がされるこそばゆさや軽い痛みから発される類でもない。 快楽に感じ入る手前の期待に満ちた震えである。 無自覚でやっているのか、これは。 一本のテープを剥がし終える。テープの端が肌から離れた瞬間に、あびるが僅かに身体を強張らせ、膝頭を強く寄せた。鼻から抜ける声が至近距離で爆ぜる。 命は生唾を呑み込み、さらに次のテープに取り掛かる。いっそのこと自分で外して貰おうかとも考えたのだが、既に一本剥がしてしまった今、次からやらせるというのも何だか気が引けた。 「んっ、」 今度は、喉を押して最大限に抑えたような声。視界の端にちらりと映る包帯だらけの両腕の幽かな動きにも、命は反応せざるを得なくなっていた。 少しずつテープと肌を剥離させていくごとに、あびるは短い吐息とそれに混じる弱々しい幽かな悲鳴を上げた。意識しないようにすればするほど、命は目の前の柔らかな肌とそれの描く曲線の円やかさを意識してしまうようになっていく。尚悪いことに診察室は薄暗く、外からは鳥の囀りさえ響かない。閉塞的な空間はこれ以上ない気まずさと焦りを命に与える。 耐え切れずに、言った。 「あの、小節さん」 「……はい」 名前を呼ばれれば返事をするのは、学生の本分である。 「声、抑えられませんか」 「……無理です」 ふふふ、とあびるの喉が笑う。屈んだまま固まる命の頭をあびるの細腕が取り囲んだ。驚いて顔を上げる前にあびるの両腕は命の頭に絡みつき、弱い力で逃すまいと強く締め付ける。顔は見えないが分かる。あびるは、笑っている。 「ご兄弟、ですからね。ふふふ、そっくり」 旋毛に直接言葉を吹きかけられた。背筋に走る何かに忠実になって身体を震わせると、あびるはさらに滑らかに腕を動かして髪を掻き分け、命の項の辺りを探った。細長い指はしなやかに動き、襟首に当たる骨を撫でたり頚動脈を引っ掻いたりを繰り返す。 体勢がいつの間にか代わり、命は自分の額があびるの柔らかな胸元に押し付けられているのを感じた。眼鏡の縁が柔肉に食い込み、目前に迫るのは包帯の機械的な白さのみである。 自分は、何をしている。 望の生徒と、何をしている。 「小節さ、」 「このまま、」 必死に搾り出した声は、あびるの無機質な声に遮られた。 「このまま、暫く、お願いします」 いや、無理です。今すぐ放して下さい。警察を呼びます。とでも言いたいところであったが、命はあびるの言う通りに暫く固まっていた。金縛りに遭ったように全身が痺れ、少しでも身じろぎすれば包帯だらけの脆そうなこの少女がみるみるうちに崩れて溶け出し、包帯しか残らなくなるのではという幻想すら抱いた。脅迫を受けている心境である。動こうにも動けない。 耳たぶを軽く食まれた。あびるの動きは酷く気だるげである。唇の生暖かな感触と共に、吐息に混じらせた明確な言葉がゆっくりと耳朶に注ぎ込まれる。 「先生……」 今までに無い声音に、命は心臓が揺さぶられるのを感じた。凛として大人びた冷たい声はどこに行ったのか、このような甘え声。 命も先生と呼ばれる立場ではあるが、あびるの呼ぶ甘美な響きを得た「先生」の二文字が自分に向けられていないことは、瞬時に悟った。 この言葉に、この行動。一体どのような意味か。最も楽に行き着く答えは、命としては到底受け入れ難いもので、しかし少女らしかぬ少女であるあびるを目の前にすれば納得もできなくはない。 「先生、先生、先生、」 さらに力を込めて抱き締められ、襟首から冷たい指が入り込んで背骨を辿るのが感じられた。嗅ぎ慣れない消毒液の匂い、少女らしい甘い汗の匂い。上半身を包む生々しい感触に苛まれ、命は呻く。 「私はっ、」 切れ切れに言い放つ。 「望ではありませんっ」 しゅるり、と。 蛇が通り抜けるように、あびるの気配が引いた。途端に呪縛が解け、命は身体中の筋肉が弛緩して血が通うのを感じた。無理な姿勢で屈んでいた身体を起こして一つ深呼吸をし、続ける。これだけは言わねばならない。 「私は、望の身代わりはしません。あなたの怪我を治すだけです」 「怪我なら、」 上半身の肌を広く晒しながら、あびるが口を開く。 「私はこの胸に負っています。深く、深く」 解けかかっている包帯に包まれた手の平を胸の谷間に置き、それから脇腹の剥がしかけのガーゼの上に置く。包帯から覗く手の甲に骨の筋が浮き上がったかと思うと、次の瞬間には乱暴にガーゼが取り払われていた。 あびるが笑う。 「私は、先生のおかげで、たくさん傷を負っているんです」 「怪我は、……嘘だったんですか」 ガーゼの下からは、瘡蓋の影さえない更地のような肌が現れていた。 命は憮然とする。自分はこの少女に好きなようにからかわれただけなのか。あれほど心臓に悪い思いをしたというのに、全てはこの少女の性質の悪い戯れに過ぎなかったのか。 「いいえ、嘘ではありません。言ったでしょう?」 あびるがセーラー服を手に取り、腕を通す。 「心に傷を負っているから、このような真似に走るんです」 脱いだときよりも随分と手早く、あびるは元のようにセーラー服を着用した。単色に包まれた診察室では目に痛い赤色のスカーフが、あびるの胸元でしな垂れている。 あびるが音も無く立ち上がった。スカートの裾が揺れて、きつく包帯の巻かれた太腿が見え隠れする。 「あなたなら、治せると思ったのに」 ぽつりと呟いて、あびるは命など見もせずに軽く会釈し、疾病のようにあっという間に去ってしまった。あびるが待合室を抜けて玄関を出るまで、命はとうとう一言も言葉を発することができなかった。上手い切り替えしの言葉など一つも浮かばなかった。 放心状態の頭でゆるゆると時計を見上げる。午前十一時を少し回ったくらいの時刻を、白と黒だけで構成された単調な時計が示す。今日は平日であるから授業がある筈で、あびるは授業をさぼってここに来たのだろう。或いは望と顔を合わせたくなかったのかもしれない。 薄暗い診察室の中で、命は椅子の背に寄りかかる。厄介な生徒を持つ厄介な弟を持ってしまった、と思う。望と自分は常々似ていると言われ続け、互いに自覚もあり、間違えられることさえたびたびあったわけだが、よもやこのように扱われるとは夢にも思っていなかった。 白昼夢とも思えるあびるの実在を醸す嗅ぎ慣れない消毒液の香が、テープを剥がした右手の指先から絶え間なく漂っている。 |